2007 年 8 月 3 日
福分・幸せ探しの旅
「身幅なりに生きる」ということと通じることがあると思うが、「福分」という概念も人の幸せを考えることになる。幸せは金や地位ではない、目的を持って大きな仕事を成し遂げても、一人の個人として空虚な人生を送る人はいるものだ。こういう人は、自分はこれでいいのだと強がるが、他人の批判に弱く、他人の目を気にする。
人には持ち物が多すぎても、少なすぎても必ずしも幸せにはならない。その人にとってもっとも幸せな持ち物、つまり「分」があるのだ。「分」とはキャパシティといってもよいかもしれない。
お金があるには越したことはない。しかし、多すぎてかえって道を間違う人がいる。お金を持ちすぎて、他人を信用できなくなる人がいる。金で買えないものはない、などと豪語する。すると、そういう類の人しか集まらなくなる。
権力もあったほうが良いと思う。しかし、例えば「俺は部長だ」と言ったところで、部下がついてこなければこんなに惨めな立場はない。それなりの人望がなければ、肩書きなどかえって惨めの象徴になる。
他にも。友人は多いほうがよい。しかし、時にはそのとき、その場で自分が役に立てる人を選ばなければならないこともあると思う。皆に良い顔をしていると、やがては皆に中途半端な対応しかできないことになる。結果として深い信頼は得られない。それなりにしか評価されない人になる。
できるだけ多くの人の信頼を得たい、という気持ちは決して間違ってはいない。しかし、自分でできることには限度、キャパシティがある。これは、と決めたことに自分の意識と労力を集中させたほうがよい。すべてがそういうことではないかもしれないが、確かにそういうことはある。少なくとも責任を持ったことに集中すれば、“あの人は他人にそこまでしてくれるか、では自分も頼むとしたらあの人に頼もう”と、結局は信頼が深まる。それが「福分」である。
「分相応」というのがあるが、私はこの言葉に自虐的、卑屈なイメージを持つ。それとは違う。「福分」とは自分が一番幸せな状態を指す。これを意識することはいわば「幸せ探し」である。
そのときその情況で、どうすることが自分の実力に照らしてもっとも幸せなことなのかを常に考える。
謙虚に。
欲張ってはいけない。
人生、福がなければ‥‥‥。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )