2007 年 9 月 8 日
待つ(その3)
待つことは、経済社会では理念に反することのようである。筆者もかつて営業の仕事をしていたときに、上司から「待っていてはダメだ」と教えられた。事業を展開するときに他社に先駆けて実行することは、常識的には目標とするところだろう。意思をもって自分の置かれた環境を変える努力をしなくては、人生も面白くないし、企業活動ではジリ貧になることは明白である。待っていて世間から置いていかれた人や組織は、社会のお荷物と言わんばかりの評価を受けることがある。積極的に事態を変えることをせず、待っていてばかりではいけないのである。
一方で待つことしかできない人もいる。待つことしかできない情況もある。待つことで自分の何かを守ろうとする人もいる。経済の指標を当てはめれば、待ってばかりいるあなたが悪いということにもなるのだろう。しかし、待つことについてもっと評価してもよいのではないか。待たなければならない人に、思いやりや温かい心、時には少しの協力という手を差しのべてもよいのではないかと思う。
地球温暖化を引き合いに出すまでもないが、自然は待つことで豊かになるはずだ。待てない経済原理が開発を助長し、アジア、中南米から熱帯雨林を破壊している。
国内でも、高齢化社会、地域の過疎化など、待つことができない人の動きが、結果として格差を生み出しているのではないかと思う。何も経済活動や一極集中を単純に否定しているわけではない。ただ待つことを余儀なくされた人たちに、思いやりという心を寄せてあげられないかということだ。
待つことは、私たち日本人としての心の原点のような気がしてならない。日本人は、畑に種を撒き、手入れをし、収穫を待つ国民だったのである。そこには自然との共存、他の人との共存があった。決して人を押しのけて這い上がる思想はなかったはずだ。待つことに郷愁を覚え、時にエールを送り、惻隠を感じる。だから渋谷のハチ公が語り継がれ、女性デュオの「待つわ」がヒットするのだ。
経済競争は止められないが、自分の生き方は自分で自由にできる。まずは一所懸命すべきことをしたら、時には止まってみよう。神の、他人の、おてんとう様のご加護を待つことにしよう。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )