2007 年 10 月 17 日
人格をもった人とは
人格者などといわれ、多くの人の尊敬や人望を集める人がいる。私もそれを感じる人生の先輩がいるものだ。詳しいことを知るわけではないが、故土光敏夫氏、故小倉昌男氏などは私の尊敬する人物である。
反面、人を感動させる良いことを言う、社会的なキャリアもある、しかし人格を感じない、どうもイマイチの人もいる。人格とは何だろう。
どうも人格などというと、大上段に構えた印象がある。一部にはそんな言葉に拒否反応を示す人もいそうである。人間に格付けして差別的だと思うのも自由だし、所詮人格などもって生まれたもので、自分には関係ないと思うのも結構だ。大体、人格者といわれる人にはロクな人間はいない、などといえばこれは言いすぎか。結局のところ、人格とは人が誰でも持つ人となりということなのだが、それが多くの人の気持ちに感動を呼ぶレベルに達した存在を人格者と感じさせるわけだろう。
では、その条件とは何か。その第一は人としていかに生きるか、それを考えることだと思いたい。何も人生に悩めというのではない。その条件はシンプルなことでよいと思うのだ。人のためになること、人の喜ぶことをしよう。人間関係を大切にしよう。そんな気持ちで十分なのだと思う。
ただし、第二の条件が問題だと思う。それは、そのスタンスがぶれないことだ。つまり、いつでもどこでも誰にでも、そうあることである。人とのかかわりの中で、何か人を惹きつける一つの信念を感じること。そして、そのことに私利私欲を感じないことである。言い換えればそういう言動、生活が自然にできることである。
亡くなった映画評論家の淀川長治氏は、人を見るときは、その人が逆境になったときを見なさい、と説いていた。お金に恵まれ、地位に恵まれ、人に囲まれた幸せな人間は、誰にでも笑顔を振りまき、親切にもするものだ。しかし、金に見放され、地位を失い、人からも見放されたときこそ、その人の本性が出る。そういうときこそ人格が試されるものだと。
難しいことではある。人間だから完全はない。でも私は信じたい。最初は誰でもただの人だ。努力してやっても良いのだ。人のために何かをする、あいさつをする、ありがとうをいつでも言う、他人の嫌がることはしない、それらを努力して続ければよい。いつかは努力しなくても自然にできるようになる。するとそのときそれが人格になるのだ。
親の手を離れ社会に出たら、所詮は人生60年くらいのものだろう。たった、その間だけなのだからと、がんばって自分を創ってみよう。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )