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2008 年 10 月 9 日

引き際(その2)

 人生のさまざまなシーンで、引き際をどのように判断すればよいのだろうか。他人が必要以上にとやかく言うべきではないにしても、当人にとってはそれは一生の総決算だ。最重要な問題だろう。

 小泉純一郎元総理が、次回の総選挙には出ないと政界からの引退を宣言した。世間の評価は概して“惜しい”“まだやれる”といったものだった。
 本人は、5年以上に及んだ総理大臣職務を終えたとき、今後は政治家としてこれ以上テンションは上がらないだろうということで、その時点で引退を決意したのだという。自分がこれ以上ベストを尽くせない、と考えての決断は、一つの引き際だろうと思う。
周囲の者にしてみれば、それでも他の政治家より影響力もあり、期待もできる、だから惜しいということだろう。

 私が尊敬する講師は、かつてよく京都に旅した。もちろん古都の魅力もあるが、その地に知り合いの個人タクシー運転手、Hさんがいたことも誘引したと思われる。このHさんには、私もお会いしたことがある。
 個人タクシーの仕事にあふれる誇りを感じる方で、穏やかな人柄、誰に対しても変わらぬ接し方で、もてなしの気持ちが伝わる人格者だ。車両の整備、清掃などが行き届いていることは言うに及ばず、運転は実に穏やか、乗る人にまったくストレスを感じさせない。市内の観光案内については実に博識、こちらの知識にあわせて分かりやすい説明をしてくれる。完璧だ。お願いすると、こちらの意見を親切に聞いてくれたうえで、的確な観光ルートを設定して案内してくれる。

 そのHさんが、ある日突然に廃業した。50歳代半ばのことである。理由は「お父さんの運転、少し下手になったわね。」という何気ないお嬢さんの一言だったという。Hさんの運転は世間的には、決して下手ということはない。でも家族は違いが分かるのだろう。そして誰より、本人がそれを自覚したのだろう。この場合の評価は絶対ではなく、かつての自分との相対である。

 50歳代になれば、誰でも運動能力が衰える。仕方がないことだ。かつての自分と比較しても意味がない。その時点でできることを精一杯すればよい。人はその時点で違った魅力を生み出せばよい、という考え方もある。だから、もっと続けて欲しいという。社会的には惜しい。
 しかし、彼は自分の職業にそれを許さなかったのだ。引き際には、それ自体に意味がない。それまでの働く姿、生きる姿そのものなのではないか。そう、そこにこそ意味があるのだ。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )