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ブログ

2009 年 7 月 16 日

考察力

 現代は情報の時代といわれている。新聞、テレビ、雑誌、インターネット、口コミなど、確かに情報があふれているといってよい。交差点で信号待ちをしていると、その前を大型トラックの荷台を改造し、大きなポスターを張ったパネルが横切っていく。電飾ぎらぎらの大音量の音声付移動式看板まである。まさに、これでもか、の感があるが、この流れは止められないだろう。
 こうなると現代人に必要なことは、情報を集めることではない。かつては、社会を有意義に生きるには、情報収集能力が大切だといわれたが、情報はインターネットなどを駆使すれば、専門家でなくても、相当の情報を必要にして十分に集めることができる。
 現代で、大切なことは考察力であり、ある種の批判力ではないだろうか。

 テレビのニュース番組では、それなりの評論家がそれなりの意見を言う。大衆に受けるように、分かりやすく適当な知的レベルと多少の角度を変えた面から光を当て、それで多くの視聴者が納得できるであろうことを言う。その多くの意見は、まんざら間違ってはいない。これが、情報として流通する。
 しかし、様々な情報を、それを疑いもなく受け入れてよいかは別の問題である。信用のある人が信用できる意見を言った、それを疑いもなく受け入れていては、人は考えることをしなくなる。能力は確実に失われる。つまり考える力が退化するのだ。評論家の故草柳大蔵氏は、これを「情報脚気」と言った。

 正しいと思われる情報、自分が納得できる情報があったら、まずは考察することが大切だ。
 それがなぜ正しいといえるのか。
 もしその情報が不正確であるとしたら、情報発信者は何を誤解したのか。
 発信者が情報があいまいであることを知っていたとしたら、情報発信の目的は何か。 情報に論理的に弱い点があるとしたら、それはどの観点からか。
 その情報は他にどのように応用できるか。
 その情報によってもたらされる効果は、他の情報、事象は置き換えができないか。
 その情報を自分の知識や、新たな情報によって改編、発展させることができないか。 それができるなら、できないなら、それはなぜか。
などなど、発展的な意味での考察力、批判力をもってさらに深く納得してこそ、さらに自分の言葉で説得力をもってその情報を人に伝えることができるはずだ。

 私は講師という仕事をしている。テレビに出演するわけではないが、連日大勢の方々の前で交渉力強化、クレーム対応力強化、組織力強化の観点からコミュニケーションのあり方を考え、意見として提案している。意見である以上、立場が違えば反論もあるだろうし、私の思慮が浅く間違った意見を述べる可能性もある。だからこそ、聞く人には自分の考察を通して聞いてほしい。
 また、すばらしい情報があれば、私はよりお役に立つように新たな考察を加えて発信しなければならない。そのことで情報はさらに価値を持つはずだ。

 言い換えれば、講師、少なくともその道のスペシャリストを目指すなら、情報や事例、現象、事象について考察、検証し、その上で発言しなければ、その資格はないということだ。いや、人前で話す講師だからではない。考察することは、有意義な社会人生活を送るための基本である。
 食品添加物は危ない、アメリカ産牛肉は危険だ、中国産食品は農薬に汚染されているなど、マスコミによる短絡的な情報は、ますます多くなっている。その中で、本当にそうなのか、そう思うならそれはなぜなのかなど、このことを考察しなければ、情報に翻弄されるだけだ。

 今の日本人には、考察力、批判力が欠けているのではないか。若い人を中心に、その場の雰囲気を読めるかどうかでものを言う風潮を感じる。これは問題である。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )