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ブログ

2009 年 8 月 20 日

あきらめる

 仕事でクレーム対応について研究するにつけ、“あきらめる”“許す”ことの価値を考えるようになった。人は夢や目標を持つことが大切だ。それを達成するためにあきらめずに突き進むことも大切だ。しかし、それが何よりも正しいとは思えなくなったのだ。あきらめられなければ、現実を許容できなければ、クレームはいつまでも続く。

 あきらめるだけで努力をしなければ、人生は決して良いものになることはないだろうが、あきらめることのほうが自律的なことであり難しいことで、あきらめられないほうがよほど感情的、情緒的なものだと思われるのだ。
 あきらめずに突き進むことで、そこにパワーが注入され、“自分がこんなに頑張っているのに、なぜ周囲の人は‥‥‥、”などと、結果的に自己中心的な考え方に陥ることは少なくないように思う。あきらめずに頑張ることで、視野が狭まり、結果として他に目が向かなくなることはないだろうか。
 夢や目標に向かってあきらめずに突き進むことが大切であることを否定はしない。それはそれですばらしいことだ。しかし、スポーツ選手などにしても、いつかは限界が来るだろう。それは自分の問題としてのこととして判断されるべきことだ。それだけにしてほしいものだ。

 職場での仕事、においてもそういうことは往々にしてある。通常の社会生活でも自己中心的な思考に陥りがちな人がいるだろう。本人は大切なことだ、正しいことだと思っていても、それは傍の人間にはどうでもいいこともあるし、迷惑な場合もある。要するに周囲の理解が得られなくては、あきらめられないことは、時にウザイ。

 家庭生活においても、ドラマのような世界はありそうだ。家族の一人が自分の思うがままに突き進み、結果そのために他の者が何かを我慢しなければならない。フーテンの寅さんなどは好例だろう。その目標を家族の皆が理解していれば、いつしか成功は美談になるし、成功にいたらなくても家族同士の思いやりで語れる。しかし、そのことは他の家族にその存在を認めてもらっているからこそで、言い換えれば許し、あきらめを得ていることに他ならない。

 あきらめずに頑張る人は、他人からその存在、所業を許してもらえているから頑張れる現実があるはずだ。誰かの許し、あきらめ、包容で自分の立場が成り立っていることを感じること大切ではないか。世間には理不尽なことはいくらでもある。それを是正することは大切だが、許容することで、別の方向にパワーを発揮することもあってもよい。クレーマーの中には、そのパワーを他に使ったら大いに役に立つのにと思われる人もいる。

 クレームを言うなとは言わない。仕事を頑張るなとは言わない。しかし、これだけは言える。どこかで人を許し、現状を許し、あきらめることをしないと、あなたもきっと生きる上で苦しくなりますよ、と。でも、そういう人は、自分は認められていない、とまたクレーマーになるのだ。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )