2009 年 12 月 6 日
銀座東芝ビル
東京銀座、数寄屋橋の交差点の一角に、銀座東芝ビル(以下、東芝ビル)がある。このビルが今年10月、東芝から東急不動産に売却され、近々に取り壊されるという。
数寄屋橋の交差点といえば、ソニービル、不二家、数寄屋橋交番、そして東芝ビルが四隅にあり、かつてはその脇に川が流れていた。そこに数寄屋橋がかかっていた場所である。今では川はなく高速道路が高架で走っているが、昭和を代表するドラマ「君の名は」の舞台である。
川の反対側には、今のマリオン(阪急デパート、西武デパート)の場所に、日本劇場(日劇)、朝日新聞の本社があった。まさに銀座4丁目の交差点と並んで、銀座の超一等地と言ってよい。
その一角にある東芝ビルの建築は、1934年(昭和9年)である。東芝の前身である東京電気の本社として建てられた。ちなみに、現東芝は、東京電気と芝浦製作所(からくり儀衛門と言われた、田中久重が明治時代に創設した会社)が1939年に合併してできた東京芝浦電気が社名変更して今日に至っている。このビルは、1980年代まで東芝の本社でもあった。
ビル自体は1960年代に増改築しているものの、地下4階、地上9階、地下鉄直結の飲食街、ショッピング街、オフィス、展望レストランを備えた複合型ビルとして、長年にわたり銀座の象徴的な存在である。
私は東京都大田区池上の生まれ育ちで、父の勤務先が中央区新富町にあったことと、池上から銀座へ路線バスが出ていたので、東京の中でも銀座のイメージが明るい。小さいころから、かしこまった買い物というと何かと銀座へ行った。小学校のころなどは、クリスマスや誕生日が近付くと家族そろって銀座に買い物に行き、年に2回は欲しいものを買ってもらえる、銀座は憧れを包含した特別な場所であった。今でも、何かと理由を作っては買い物、食事、飲み会などには必ずといってよいほど銀座に行く。
その憧れの街の一等地に建つ東芝ビル、今でも私はこのビルを利用する。建築学科を卒業した私はこのビルの平面プランが好きである。飲食街、ショッピング街、オフィス、展望フロアなどが、実によくまとまっている。
小中学生のころだったか、このビルの最上階に四季というレストランがあって、テレビでコマーシャルが流れていた。銀座の一等地のビルの最上階、数寄屋橋の交差点を見下ろしながら食事ができる。ここはきっと日本で一番高級なレストランなのだと子供心に勝手に決めて、いつかはここで食事がしたいと親にせがんだものである。社会人になっても、いつかはと思ったが、結局行くことはなくその店はなくなってしまった。
このビルには、かつて地下から4階まで阪急デパートも入っていて、地下2階が食品売り場だった。その一角には、スタンド形式の寿司店があった。
高校か大学の頃だったと思うが、母方の祖母が「阪急の地下に、安くておいしいお寿司屋さんがある」と一時えらく興奮し入れ込んで、私や母を連れて行ってくれた。祖母は買い物の時間をわざわざ昼食時に設定し、時々買い物がてらに行っていた。私も1回連れて行ってもらったが、母や妹はもっと多かったと記憶する。
この店が今も東芝ビル地下2階にある「福助」である。ずっと後で確認したことだが、この店は日本で初めてのデパ地下食品売り場にできたスタンド寿司店で、当時1カン30円均一だったという。この店はその後支店を増やし、今は各地の商業ビルのレストラン街に10店ほどがあるが、銀座東芝ビルの寿司が私にとっての「銀座の寿司」である。
この店もこのたびの建て替えに伴い、2009年12月28日で閉店する。
また一つ昭和が消える。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )