2010 年 12 月 12 日
オールナイトニッポン
言わずと知れた深夜放送である。東京の放送局ニッポン放送が、昭和42年に始めた。
私の年代より少し上の方々には大いに懐かしい番組だろう。
当時は、夜8時を過ぎれば営業している商店はほとんどない。もちろんコンビニなどない時代だ。日本に初めてのコンビニ、セブンイレブンができて、なんと朝7時から夜11時まで開いていることに日本中が驚いた時代だ。夜0時を過ぎればテレビ放送は終了し、交通機関も止まり、深夜はまさに静寂と孤独の時間であった。
当時の深夜放送といえば、午前零時の時報の後に、FM東京で「ジェットストリーム」のテーマミュージックである「ミスターロンリー」が流れ、午前1時には「オールナイトニッポン」の「ビタースウィートサンバ」が流れる。なんともいえない秘密めいた時間の始まりであった。
私は当時中学生だった。中学2年生のころだったか、クラスの一部で番組への評判が立ち。TBSラジオのパックインミュージック、文化放送のセイヤングとともに、あっちが面白い、私はこっちを聞いている、などと突っ張りあったものだ。私はオールナイトニッポン派だった。オールナイトニッポンでかかる曲には、洋楽も多く、この話題の輪に入れることが、また大人への背伸びに感じた。
私はあの当時、夜は11時くらいには寝ていたから、午前1時まで起きていることは大変な苦労だった。つなぎの意味で、11時ごろから、JBハリスさんの「100万人の英語」を、テキストを買って聞いたこともあるが、このラジオ講座が格好の子守唄になったこともしばしばだった。それでも、起きていられたときは、外国の曲を覚えるべく眠気と戦って聞いたものだ。
当時、アナウンサーという人は、まじめな話しかしない、原稿を淡々と読むだけといったイメージがあったが、リスナーからのはがきに答えるオールナイトニッポンのパーソナリティの軽妙なトークに、次はどんな展開が待っているのだろうと、わくわくしながら聞いていた。
特に、オールナイトニッポンの木曜日を担当していらした今仁哲夫さん(てっチャン)のトークは実に軽妙で、はがきをくれたリスナーに「青木の奥さん」などとニックネームをつけてやりとりをしたりして、まるでラジオ版井戸端会議ともいうべき展開をしたり、自分のご長男を引き合いに出し「うちのヒサシがね‥‥‥」などと子どもの発育の過程を紹介したり、国産のムスタングに乗ってドライブした、などと私生活をネタにして、親しみを感じさせてくれたりした。今考えれば、国産のムスタングなどという車があったのかどうか。これも冗談だったのだろうか。
あの頃、よくかかっていた思い出の曲にマッシュマカーンの「霧の中の二人」というロックがある。透明感のあるギターの音色に、大人を感じたものだ。その後、私の思い出の曲はビートルズの「レットイットビー」、ショッキングブルーの「ビーナス」と続くことになる。
この「オールナイトニッポン」が、今年度「オールナイトニッポンクラシック」というタイトルで、全日空の機内オーディオ放送で流れている。当時のニッポン放送アナウンサーである斉藤安弘さんがパーソナリティを勤め、構成的にも当時のオンエアのイメージを踏襲しており、選曲も60年代から70年代を中心に幅広くすばらしい。古希を迎えられたという斉藤さんの声も当時のまま変わらない。いやみのないウィットとも言うべきしゃれや冗談も当時のままである。
毎回当時のアナウンサーがゲスト出演する。ニッポン放送の高島ヒデタケアナウンサーの声を聞いたときなどは、往時のイントネーションに感激した。パックインミュージックの「ナッチャコパック」で人気を博した声優の白石冬美さんも登場した。ミュージックスカイホリデーの滝良子さんも、とにかく懐かしい。あの頃の様々な思い出が蘇る。
私は、仕事柄飛行機に乗ることが多い。月に10回以上搭乗することも珍しくないのだが、このオールナイトニッポンクラシックが始まってからは、着席してから降りるまで、ずっとこれを聞いている。東京、札幌間を往復すれば4回は聞けるから、ひと月に同じ内容を20回、場合によってはそれ以上も聞いていることになる。
あの頃に改めて、感激、感謝、感動である。と同時に全日空でこの番組を企画した社員、そして何より斉藤安弘さんに感謝である。
オールナイトニッポンは、私の青春の思い出のラジオ番組ベスト5に入る。あとは何かって? ここでは秘密としよう。
オールナイトニッポンは、その後タレントが司る演出、構成になり、現在も続いている。今の番組はバラエティトークが中心でかつての面影はない。私は聞くことはない。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )