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2011 年 1 月 20 日

土光敏夫氏

 この名前を聞いて、分かる人も少なくなった。
 岡山県出身、石川島播磨重工業社長、東芝社長、経団連会長を経て、第二次臨時行政調査会会長のときに当時の日本国有鉄道を民営化した功績がある。経済界の重鎮的存在であった人だ。つくば科学万国博の大会会長もされた。
 大手企業の社長、経済界の大物でありながら、暮らしは質素。収入は当時で3000万円とも言われているが、自分の暮らしに必要な額を残し、後はすべて寄付。
 朝は4時前に起きて体操、読経。朝食はめざし2匹にご飯と味噌汁。何年も着古した背広を着て6時に家を出る。大会社の社長でありながら、車は使わず鶴見区の自宅からバスと京浜東北線を乗り継いで、当時、東芝の本社のあった新橋へ。7時30分には裏口から会社へ入り、社員の勤務時間前には必要な打ち合わせを済ませる。
 夜は、酒の席には一切出ず。7時には帰宅して夫婦で食事。9時前に寝てしまうという人である。
 「無私の人」などともいわれ、他人につくした。土光さんでなければ、当時の国鉄の民営化はできなかっただろうといわれている。昭和63年に亡くなった。

 私が氏のことを知ったのは、中学2年であった。尊敬する人について作文を書くように課題が出た。偉人の伝記を読んで作文に仕立てたり、父や母への感謝を作文に仕立てたりする友人が多かった。読書嫌いの私はそんな努力をしたくもなく、身内を尊敬するなどとたたえる作文はどうもなじまないと感じていた。困り果てたので、結局「親父の尊敬する人物は」と父に聞いたものだ。そのときに父から土光さんの名前を聞いたのだ。
 しかし、作文を書けるほどの情報がない。父に意見を聞き、結局それを自分の言葉で書き換えて提出した覚えがある。

 その後が、子どもだった。それでは自分が納得できない。父が尊敬するというほどの人に会ってみたいものだ。そう思った私は電話帳で東芝の本社を調べ秘書課に電話した。「大田区に住む中学2年です。社長の土光さんにお目にかかりたい」と。
7万人もの社員を抱える、日本最大の総合電気企業の社長である。常識的に考えれば無謀な話である。そこは中学生、分かるはずもない。電話に出た方が、当時30歳くらいであろうか、浜田裕志さんという若手の秘書課員。しばらく考えた末に「分かりました。○月○日朝7時30分本社で5分ほど時間を取りましょう」。
 帰宅した父にそのことを話すと、冗談と思ったらしい。父は、次の日に東芝に電話をかけて確認し、事態が本当だと悟ったという。さあ大変だ、中学生の息子が失礼なことを聞いてはまずいというわけで、父の考えた中学生らしい質問事項に、私が聞きたかった質問を1つだけ加えてリハーサル。さらに、当時3万円もした東芝のオープンリールのポータブルテープレコーダーを買ってもらって面会に及んだ。

 この時のインタビューテープは、先生の計らいで中学校の給食の時間放送された。しかし、私も含めてこのインタビューの価値の分かる人がどれだけいただろうか。土光さんに会うことが、常識的にはいかにむずかしいことか。それを分からずに実行に移してしまったのだから。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )