2011 年 3 月 4 日
土光敏夫氏 その3
数年前である。研修の講師として岡山に行った。私の尊敬する、故土光敏夫氏の生家を探しに出た。
岡山へは過去に何度も伺っている。いつかチャンスがあったら、とずっと思っていた。心には留めていたが、それをしなかった。その年に、私の気持ちの中でその思いが熟成した。今年こそはと思った。
そこが、岡山市内の某所であることはおぼろげながら分かっていた。
岡山市内に着いて、研修を担当してくれた方にその話をした。その方は知らないということであったが、私が住所を示すとこの近くだという。この方は、私が研修をしている最中に知人に聞いたりインターネットで調べたりしてくれた。研修が終わると「だいたいの場所が分かりました。車を用意しましたのでこれから一緒に行きましょう」という。世間話程度の話のつもりで話したことであったが、そこまで発展してしまったのには申し訳なく思ったが、その方も「関根さんのおかげでと良い機会だ」と言ってくださったのでご厚意に甘えることにした。
さて、その場所は最近区画整理がなされて、見るからに新しい町並みだった。家も建て替えられたものが多く新しい。ちょっと見たところ古い家がない。明治の方のお宅だから取り壊されてしまったのだろう。分からない。
そこへ1人の男性が通りかかった。見るからに地元のおじさんタイプだ。連れの方が訊いてくれた。すると「ちょっと待って。母を呼んできます」という。今度は老婆がやって来た。その家の表札を見たらなんと「土光」と書いてある。ご親戚だった。
勝手に歩いていかれる後をついて行くと、区画整理された一画に真新しい墓苑があった。そこが土光菊次郎さんの墓。土光敏夫氏のご尊父である。建立、土光敏夫と書いてある。そこを参り、次に案内してくれたのが、法華経の会堂。土光さんのご一家が建てられ、敏夫氏の奥様が毎年何度も通って行かれた場所だ。別の親戚が管理されているらしいが、今は使われていないらしくほとんど物置の状態であった。
土光氏のルーツを垣間見るひと時であった。
土光敏夫氏の墓は、鎌倉の安国論寺にある。鎌倉時代、日蓮上人が立正安国論を書いたといわれる場所だ。
私は、その場所を時にたずねる。今の自分は正しき道を歩いているか、心を強く持ち周囲の人のためにつくしているか、反省し心をあらためる、私にとっての聖地である。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )