2011 年 3 月 21 日
地震のとき仙台にいました
3月11日(金)午後2時46分、私は東北電力の本店で研修中だった。
正確にいうと、午後3時までの予定で研修を行っていたのだが、3時少し前には解散したいという主催者の意向で、講義を2時40分で切り上げ、受講の方々にアンケートを配布し記入していただいている中、主催者側の閉講のあいさつが始まった瞬間だった。
下のほうから突き上げる微振動、続いて大きな横揺れが始まった。実は仙台はその2日前にも震度5の地震があったので、当初はその余震かと思われた。それにしても、横揺れはだんだん大きくなり、天井からは埃が落ちてくる。これでもかというほど長い時間だ。感覚的には3分から5分ほどか。
結果的に仙台市内は震度6強だった。初めての経験だったが、今振り返ると私はそのときは結構冷静だったと思う。理由はいくつかある。
第1は、東北電力本店ビルの1階だったことだ。このビルはできて10年と経っていない。新しいビルで超高層だ。電力会社の本店であり、間違いなく構造的にはしっかりしていること、特に基礎、杭は他のビルよりも相当に深いはずだ。このビルが倒壊することはない、と揺れながら考えていた。この安心感である。ここは、私の建築学科卒業の感覚が生きる。唯一私が注意したのは、頭上の蛍光灯が落下しないかだった。扉が開かなくなる可能性も考えたが、これは誰ともなく「ドアを開けろ」と叫んで誰かが開けた。
第2は、阪神淡路大震災と同じ揺れを、電力中央研究所で体験していたことにある。つい3~4年前にも、住んでいるマンションの防災訓練で起振車に乗っていたことが役立った。今回は揺れながら震度6か、あの時と同じだなどと考えていた。
第3は、研修会場が会議室だったことだ。要するにその場所にあるのはキャスター付きの会議机と椅子だけだ。室内において棚から何かが落ちてくるとかはないわけだ。これが落ち着きの要素として相当に大きいと思う。一般的な住宅であれば、地震のときに棚が倒れる、何かが落ちる、何かが割れる、壊れるなどそういった音や、めちゃめちゃになってしまう情景が目の前にある。環境が人の恐怖を倍加させるのだと思う。
第4は、研修の場であったことだ。講義は終わっているとはいえ、講師として大勢の人の前にいる。その責任感というか自負心というか、ここであたふた、おろおろしているわけにはいかない。そんな役割意識も落ち着きのポイントだった。
この原稿を書いているのは地震から10日後だが、今振り返ってもこの4項目は大切なポイントだと思う。
第1に、耐震性の高い建築物の中にいて、その耐震性能を信じること。
第2に、普段から訓練、体験をしておくこと。
第3に、環境から体感するリスクを減らしておくこと。
第4に、気をしっかり持つことだ。センチメンタルにいうと恥の概念を持てということか。
本震の後、何度となく余震が続いた。やがてビルから出るように非常アナウンスがあった。これだけのビルなら中のほうが安全なのに、と思ったがそこは指示に従うしかない。雪もちらつく寒い中、駐車場に移動した。周囲の古い建物の病院からは、患者らが数人やってきて、ダンボールを敷いて毛布などに包まっていた。いよいよ避難生活が始まることを実感させる様相だった。
そこでしばらく過ごしたが、私の研修の主催者各位は、当然非常体制になっているだろうから、東京から来ている講師などに関わっている暇はなかろう。そう思った。ここにいても仕方がないと、その場を後にした。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )