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2011 年 3 月 22 日

地震のとき仙台にいました その2

 電力会社のビルを後にして最初に考えたことは、揺れの状況から判断すると新幹線は動いていないだろうということだ。私は16時台の新幹線の指定席を持っていたが、あと1時間ほどだから、多分この列車は動かないだろうと思った。それでもその時点では、これほどの災害になっていることは分かっていないのだから、3~4時間すれば新幹線が動くかもしれないと思っていた。しかし、一方で今日は東京へは帰れない可能性があることも覚悟した。

 そこで、昨日まで宿泊していたホテルに行って、電気も何もなくてもいいからとりあえず1泊、部屋を使わせてほしいと交渉してみることにした。とりあえず、今晩寝るところさえ確保すれば安心だ。外は雪模様で寒いが、毛布に包まっていれば何とかなると考えたのだ。ドーミーイン仙台駅前という、できてから3年ほどの新しいホテルだ。新しい建物だということは、建築基準法における耐震基準も新しいわけで、この建物なら大丈夫だと思った。これも私の行動のポイントだった。

 ホテルは混乱しており、係の人が「このような状況で、今日は泊めることができるかどうか分からない」と言う。そこは交渉だ。「今日まで泊まっていたのだから何とか頼む」「宿泊できるかどうかはっきりするまで、せめてロビーに居させてほしい」などと言ってロビーに入り込んだ。すでに30人近い人がロビーに入って不安な面持ちでいた。
 しばらくすると支配人がやってきて、我々に対して「今日の宿泊はこちらからキャンセルさせていただく」「チェックイン済みの人には返金する」「こういう状況だから、今しばらくこの場にとどまることは構わないが、状況を見て退出していただくこともある」などと言った。混乱に乗じた感はあるが、これで私はその場に1泊できることになった。

 この時点では、地震は仙台だけだと思っていたが、夕方になって断片的なラジオの情報から、仙台はまだいいほうで、海岸部で被害がおおきいこと、どうやら東京にも被害が出ていることを知った。首都圏のJRが不通だということも。すると、家族や社員のことも気になる。こちらが無事だということも伝えておいたほうがいいだろう。電話は何度かけても通じない。パソコン通信がかろうじてつながったので、社員にメールを送り家族への連絡を依頼した。しばらくして、家族の無事が社員からのメールで届いた。東京は電気が通じているという。それなら、たとえ帰れなくとも暖はとれるだろうことに安心してパソコンの電源を切った。この際、パソコンも携帯も充電量を気にしなければならない。思うように使えないことがつらかった。

 とりあえず居場所を確保したが、ビジネスホテルなのでそれほど広く豪華なロビーではない。床はプラスチックタイルで、簡単なテーブルと椅子がある、朝だけレストランに使うスペースだ。結局、その日に予約を持っている人を中心に40人ほどが集まってきた。外は雪、電気は点かず、暖房もない。寒い。隣の人と話をするが、お互いにこの先が不安で会話が盛り上がらない。その間も余震が続く。そのたびに外へ逃げ出す人、声を上げて怯える人などもいた。私はじっとしていたので、となりの人から「落ち着いていますね」と言われた。「この建物は壊れないはずだから、ここにいたほうがいい」と説明してあげたら、その人も多少落ち着いたようだった。多くの人は、ニュージーランドのビルの崩壊をイメージしている様子であった。

 私の周辺には、大阪の医師、鶴岡市の主婦、イベント会社の社長、会社員風の人などがいた。母親と来ていた東北大学の受験生。中国人も3組7~8人。グループ、ご夫婦、女性2人で日本語が話せない人もいた。
 イベント会社の社長は、次の日に仙台で開かれる予定だったダーツの選手権大会の関係者だという。イベントが中止になったと嘆いておられた。ダーツのルールを説明していただいた。勉強になった。

 夜7時ごろにホテル側からペットボトル1本の水と小さなパン4つ、使い捨てカイロ1個、毛布と羽根布団が配られた。パンは小さなものを1個しか食べなかった。この先に食料を残さなければとの気持ちもあったが、空腹時に血糖値を上げると後に空腹感が増すことを心配したからだ。
 布団を床に敷き、スーツにコートを着たまま毛布に包まって8時前には寝た。他にやることもないし、ただ寒かったからだ。その日は寒さと、床の上で洋服を着たままだということ、余震が続いていること、こんなときでも寝られるうらやましい人の大いびきで、とにかく眠れなかった。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )