2011 年 3 月 22 日
地震のとき仙台にいました その3
翌日の土曜日、朝5時ごろから目が覚めていたが、何もやることはない。新幹線の開通を待つだけだ。私は、この時点でも新幹線はやがて動くだろう、電気はすぐに点くだろうと考えていた。しかし、ラジオの情報を聞くにつれ、それも今日は無理だということが徐々に想像できてきた。あと2日はここにいることになるのかなと思い始めた。来週は火曜日から中部電力の研修がある。なんとしても月曜日中には帰らなければならない。焦りを感じた。
朝6時にホテル側から、パン1個とジュースが1杯配られた。これもパンを半分にしてゆっくり食べ、ジュースは1杯を3時間かけて少しずつ飲んだ。
午前10時ごろ、ホテル側から、我々を県庁、市役所の避難所に連れて行きたいとの申し出があった。そこは電気も点いている、暖房もある、食事の配布もあるということだった。何人かがそれに従った。私もそうしようかと思ったが、ちょっと待てよ!と思った。過去の災害の避難所の光景がよぎった。ここは電気と暖房はないが、それはやがて復旧するだろう。何よりも毛布と布団は、避難所に行った人の分がこちらにまわるから1人2枚はある。トイレも使えている。しかも、この場所は不特定の人が出入りして来ない。
私はホテル側の申し出には賛同せずに居残った。結局、行かなかった人のほうが多かった。友人知人宅などに移動した人もいて、人数は20~30人ほどに減った。
ホテルにいてもやることがないので、近くに地震の被害を見に行こうと思い、昼前に散歩に出た。これに大阪の医師がついてきた。彼は仙台が初めてだという。市内中心部を案内しながら県庁、市役所にも行ってみた。市役所の隣には鹿島建設の東北支店がある。そこには友人もいる。彼は仙台に自宅がある。何らかの援助が得られるかもしれないと思ったが、彼にも立場があるわけだ。尋ねなかった。
県庁も市役所も人々でごった返しており、1階の石の床に新聞紙やダンボールを敷いて寝ている人も多かった。毛布などまったくない。食事を配られている様子もない。ホテルに留まって正解だった。
仙台市街の中心部は表向き平成だった。ただ、電気が点いていない、人通りの少ない、休日ののどかな風景に見えた。外壁にクラックの入っている建物がいくつかあったが、ほとんどが構造的に大きな損傷を受けているものではないようだった。この時点でもテレビを見ていないので、津波の災害映像など想像だにしていなかった。その後の報道の印象では、今回の地震で直接的に倒壊(津波を除く)した建物は、多くが古い木造であり、鉄筋コンクリート造、鉄骨造の建物については、構造的にはほぼ無傷に近いようだ。最近の日本の建築の耐震性は相当なレベルだと思われた。
仙台の街中は、電気が止まっているので商店のほとんどは閉まっていた。いくつか開いているコンビニエンスストアには長い列ができていた。見ていると、客は食べられるものは何でも買おうというスタンスだ。おにぎりや弁当、パンはとっくに売り切れていて、スナック菓子などを買いあさっていた。あるドラッグストアの前では、お菓子やスナックを抱えた人が50メートル以上の列を作っていた。何をしているのかと列の先頭に行ってみたら、要するに店内で選んだ商品の会計をするための列だった。商品は手に取れるのだが、会計をするためには並ばなくてはならないというわけだ。電気がないので手計算でお金のやりとりをしている。だからこれだけ列が長い。勝手に持っていっても分からないだろうに、本当に日本人は正直だなと感心した。後から報道で知ったが、場所によっては盗難や商品の略奪もあったようだが。
ホテルに戻った。やることがない。午後2時になった。朝から8時間。1日がやたらと長い。もう一度外に出てみたが、午後から気温が下がり先ほどより寒い。やることがないので、それぞれの人が携帯で何度も連絡を試みるが通じない。100回かけたら通じたなどと言っている人もいたが、災害時にそういうことをすることが果たしてどうかと思い、私はあまり電話をしなかった。それでも気になるので数回はかけてみたが、やっと1回は自宅につながった。自宅からはそれこそ何度もかけていたらしい。
そんな時、昨日から隣にいた鶴岡市の主婦の方の携帯にご家族から連絡が入った。いつになるかは分からないが、妹さん夫婦が車で迎えに来るという。私は罪の意識を覚えたが、来週の仕事のこともあり、他の人がいないときを見計らって勇気を出して、よろしければ私を車に乗せていただけないか、とお願いした。彼女は何の抵抗感もなく、承諾してくれた。迎えの車が夕方4時過ぎに来た。
私はそれで仙台を脱出し鶴岡に移動した。山形県内はほぼすべての地区で停電と聞いていたが、鶴岡市だけは停電しなかったという。駅前のワシントンホテルに飛び込みでチェックインし、私の避難所生活は1日で終わることになった。翌日の朝5時台にホテルを出て、庄内空港から羽田に戻った。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )