2011 年 3 月 24 日
地震のとき仙台にいました その4
日曜日の朝、庄内空港では満席の予約に何人かのキャンセル待ちができていた。そこは日ごろからの役得である。ANAのゴールドカードを持っている私は、始発の便に乗ることができた。羽田空港に着いたのは、日曜日の朝8時10分。自宅には9時30分ごろに着いていた。
前の晩にはお風呂に入れていたので体はさっぱりしており、帰宅時は仕事でのいつもの出張後の帰宅とあまり変わらないイメージだった。荷物を解き、ゆっくりくつろごうということだが、テレビでは津波で町が崩壊するシーンを何度も放映している。かたちの上では普通の生活に戻れたわけだが気分が優れない。疲れていることもあるのだろうが、それでなくとも津波で町が消えていくシーンはショッキングだ、何度も見せられると、何度も胸が詰まる。
あのときに仙台にいたこと、もし仕事の場所が少しずれていたら、もし地震の時刻がずれていたら、新幹線に乗っているときに地震が来ていたら、といった感情が重くのしかかってきた。その日は重い気分で過ごした。
さらに、家に帰れた安堵感と同意に、自分だけがあの場所から離れてしまったことへの自責の念が襲ってきた。私は2日目には暖かいホテルの部屋にいた。3日目には自宅に戻れている。
あの場所にいたあの人たちは、あの後2日目も寒い夜を過ごしたに違いない。何人かは今もあの場所にいるのだろうか。中国の旅行客はどうしているのだろうか。もう一回、あの場所に帰りたいとさえ思った。もちろん不可能だし意味がないが。
私は、幸運にも鶴岡の方のご厚意で早く東京に帰れたわけだ。よかった、幸運だったと人はという。もちろん自分もそう思う。鶴岡のAさんには最大限の感謝だし、恩人といってもよい。しかし一方で、果たして自分だけが帰ってきた、その行動に羞恥を感じないのかを自問した。このことは一生引きずるのではないか、と今も思う。
家族、両親が行方不明だという小学生の女の子が瓦礫を前にして「お母さんに会いたい」「おかあさーん」などと絶叫している姿を見ると、何ともいえない気持ちになった。かわいそうだ。
その夜は、自分が小学生の年頃になって「パパに会いたい」「パパー!」と父親を呼ぶ夢を見た。私は子どものときいわゆるパパっ子だった。父は28年前に他界している。自分はそれほど弱い人間ではないと思っていたが、無力感を感じるし実際に無力だった。
火曜日からの研修も中止になった。結果、この1週間は差し迫ってやることがない。これらの経験をして、軽い無常観に襲われたのだと思う。何をしても意欲が湧かないのである。いつもなら家では加山雄三、松任谷由実などの音楽をBGMにして、好きな歌を口ずさんで過ごすのだが、聞く気にならない。現在、連載原稿を2つ持っているのでその原稿も書かねばならないし、頼まれている単行本の執筆もしなければならない。
文章を書こうという意欲が湧かない。時間をかければできる物理的な仕事ならやれるのだが、何かを考えることができない。何かを考えようとすると、どうせいつかは誰もが死ぬのだ、などと刹那的なことを考えてしまう。しかし、刹那に身を投じる気にもならない。
その週の研修が中止になったので、震災の次の週は珍しく連日自宅で夕食を取った。普段は研修や講演に全国を移動しているので、1週間、毎日続けて家で食事を取ることはまずない。意欲を感じない状況を変えよう、体調を変えようと、夕食時にはワインを毎日1本ずつ空けた。夜は9時ごろに寝た。酒に頼ったつもりはないが、気分を変えたかった。
あれから10日以上経つ。お身内が命を落とされるほどの被災者の方々には申し訳ないし、当事者の方々はもっと深刻なストレス障害に見舞われていることだろう。
それに引き換えおまえは何だ、これくらいのことで、だらしがないといわれればそのとおりだが、自分でもそう思う。自分の気持ちがコントロールできないこともあることを実感した。
私の気持ちは戻りつつある。そんな私も日々脱しつつある。音楽も聴くようにしている。好きな番組の一つ、録画して見ている寄席番組「笑点」を見て、おもしろいと感じられるようになって来た。結局、自分のできることを生き生きとやるしかない、と思えるようになった。この当たり前のことが、ありがたいことだ。
23日、大分市で講演した。この10日あまりの気持ちを振り切ろうというつもりなどはなかったが、今、ここでできる限りのことをしようと、ありったけの気持ちを込めてお話しした。講演後にこんなことを言えばよかった、ここはこうすればよかったと反省は残るし、お聞きくださった方々はどのようにお感じになったかは分からない。
しかし、講演の最後に発言してくれた若い職員の「今回の講演を皆に伝えたい、セキネさんのDVDはないですか」の一言で救われた気がした。できる限りの人生を生きていこうという意欲をいただいた。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )