2012 年 1 月 10 日
人生は運だ - 今年こそ「絆」が試される
「一年の計は元旦にあり」
かつて良く聞いたこの言葉を、最近はあまり聞かなくなった。年頭に当たって、なぜかと考えた。
「今年は何をしようか」「‥‥‥をしたいな」などと考えろ、そのことを夢や目標にして今年一年、充実した生活を送ることを決意せよと、子どものころに親に教えられた。
しかし、そういえば私自身も「今年は何をしよう」などと思わなくなった。望むことは何かと問われれば「無病息災」「家内安全」だろうし「スノーボードがもっとうまくなりたい」では大人気ない。そんなことを高齢化というのだろうか。
大人になると、一年の計のニュアンスとしては「夢」とも違うし「目標」でもないような気がする。前の一年を振り返ることと、この一年に憧憬にも似た望みを持つ。年賀状の決まり文句である「今年はよい年にしたいですね」そんな概念が「一年の計」なのではないか。
もちろん、よい年にするために必至で働く、目標を持って必至で何かに取り組む、それはそれであるのだ。最近は、賢い人が増えたせいか、目標管理、自己実現などといった言葉が年中飛び交っている。正月にあえて「一年の計は‥‥‥」などと言わなくても、目標だらけの日常なのだ。でも、一年の計とは違うなと。
目標を立ててそれを実現するためにがんばる、それはそれで立派なことだ。しかし、勝手に目標を立てておいて、それを実現することが困難になると“どうして自分だけが”とか“こんなはずではなかった”と環境のせいにする。“何とかして欲しい”と他人に頼る。そんな人が増えている気がする。あちこちにクレーマーが出現する背景の一つに思えるのだ。環境からどのような影響を受けようが、人の間に生きる者として最低限行うべきことは一つだけ、他人に迷惑をかけないこと。それだけだ。
所詮、人生は運だ。自分の力ではどうにもならないこともある。
例えば、このところの新卒学生の就職率の悪さである。数字を見ると本当に気の毒に思う。しかし、それも本人が悪い訳ではない。その時代に生きてしまった運である。どうしようもない。ではどうするか。環境だ時代だなどと“恨みを言わずにどうにかする”それしかないのである。
例えば、災害もそうだ。被災地の方々には心からお見舞いを申し上げるが、これも誰のせいでもない。この国に生まれ、その地に住まうことになったのも運だ。政治が悪い、社会が何もしてくれないなどと環境を恨むのではなく、自分で考えてどうにかする。それしかないのだ。
己の不運を恨めば、不運からは決して抜け出せない。私はそう思う。
しかし、人生は運だから自己責任で何とかしろ、他人を頼るな、他の人は関わるなといっている訳ではない。自己責任という言葉が流行っているが、何かというと自己責任だと人を切り離す、自分とは関係ないという傾向を感じる。これも不運を恨むことと同等な行為だ。
もちろん自分の人生のすべては自己責任だ。そんなことは当たり前だ。しかし、大切なことは、その周囲の人間が、思いという意味でそれを共有すべきだということである。たまたま不運を生じている人がいたら、それを見て見ぬ振りというのは人としてもっとも恥ずべき行為だろう。現象的には何にもできなくても、思いを馳せる、共有する気持ちが大切だ。
津波によって大勢の方々が大変に気の毒な状況になっている。これも運だ。個人にはどうにもならないことだからである。しかし、この運は国民全体の思いで支えなければならないのである。例えば、福島で発電される電気は、主に首都圏で使われていた。その電気があったからこそ日本全国のコンピュータシステムは稼動し、日本国は世界にもつながっていた。その福島の人々に運だから諦めろ、自己責任でがんばれとは言えないだろう。国民全体が何ができるかを考えること、思いをそこに向けることだ。少なくとも福島の農産物を気持ちが悪いからと言われなく避けたり、怖いからとべっ視するような愚を冒してはならない。
人生は運だ。自分でコントロールできないことだらけだ。それを受け止め周囲の人とつながってこそ、周囲の人はその思いをつなげてこそ、そこに人の幸せがある。
昨年を代表する言葉の一つが「絆」だそうだ。多くの日本人がそれを支持した。本当の絆は他人を思う心にある。今年はその言葉が試される。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )