2012 年 3 月 10 日
地震のとき仙台にいました その5
東日本大震災から1年が過ぎようとしている。
3月2週目の金曜日。平成24年3月9日、私は今年も仙台にいる。
昨年と同じ、東北電力株式会社において3月7日から3日間の研修を終えたところである。
あの日、私が仙台にいたことは、1年前のブログにも書いた。このブログは私の会社のサーバーにしか入れておらず、誰でも見ることはできるものの、実際には知り合いや関係者しか見ることはない。それでも多くの方が、あの日の記述を読んで、感想を寄せていただいた。今、自分で読み返しても涙が出るほど、当事者としては、切なさが残っている。
今日、あの日と同じ15時に研修が終わり、16時台の新幹線で東京の自宅に帰る。自宅には19時ごろに着く。家族と共に夕食を囲む。私は仕事柄、家族と夕食を食べる機会が少ないので、それは私の楽しみの一つである。
家族は、仙台の牛タンや笹かまぼこ、ずんだ餅など、お土産を期待して待っている。「牛タンも店によって肉の厚さや味付けが違う」などと言って、歓談しながら食べる。そういった団欒を想像しながら、あの日も14時46分までは過ごしていた。
あの日の夕方の仙台は、雪が舞い、すこぶる寒かった。
今日は、ほぼ平年並みの気温だそうだ。もちろん東京よりは寒い。小雨。雪は降っていない。新幹線は時刻どおりに動いている。電気も点いている。街の様子もいつもどおりだ。お土産も買った。家族との団欒を想像しながら帰る。その当たり前のことの何と幸せなことか。
災害で家族を失った方々には、大変に申し訳ないことと思う。でも、人の幸せは運である。何があっても運と思うことである。申し訳ないがそれしかない。
将来のことを想像するのは自由だし、それはそれで大切なことだ。しかし、人はある状況になると将来に展望が持てないこともある。来年、再来年、10年先を想像することもつらいこともある。それが人間だ。
そのようなときには、あと30分後、1時間後を想像することはできないか。2時間後に何をしようか、明日の今頃はどうしているだろうか、そんな近い将来を想像することもまた幸せなことではないだろうか。それは、大きなことではなくてよい。掃除でも、洗濯でも、散歩でも。散歩に出たら新しい発見があるかもしれない。名もない花や雑草を探すだけでもよい。
それでも、すべてが想像どおりになるかは分からない。分からないからこそ、刹那を感じるのであり、また明るく想像することが大切なのである。
今日までの2日間、去年と同じホテルに宿泊した。震災の夢を見た。必死になって子どもを助けている夢だった。
フロントに、去年のあのときにもいた係の方がいた。気になっていた中国からの観光客のことを聞いてみた。結局、震災から数日間をホテルのロビーで過ごし、どなたかのご厚意でタクシーに分乗し、山形に向けて移動して行ったという。
1年後に同じホテルに泊まり、夢を見てうなされる。
それでしかない、自分の無力さを感じた。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )