2012 年 5 月 17 日
地震のとき仙台にいました その6 - 心温かい人々
2011年3月11日、私は仙台で講演中に地震に遭遇した。
東京への交通、通信手段を絶たれ、電気は停電、外は時折の雪、室内外すこぶる寒く、限られた食料、この先いつ帰れるかの不安の中、たまたま隣に避難していらした方のご厚意で、山形県鶴岡市に移動することができ、2日目、3月13日の午前には庄内空港から羽田空港への飛行機に搭乗、自宅に戻ることができた。このことは、昨年3月のブログに載せたが、友人、知人から反響を大きくいただいた。
あれから1年2ヶ月、私の気持ちの中に、どうしてもしておきたいことがあった。
それは、あの日、私を鶴岡まで乗せてくれた、Aさんと車を運転してくださったその妹さんご夫婦にもう一度お会いして、お礼を申し述べたいことであった。もちろん、そのときにもお礼を申し述べたが、それは当たり前のことでしかない。何としてももう一度お会いして、その人となりを自分の記憶にきちんと留めることで、限りない感謝の気持ちを、この先もより具体的に、しっかりと持ち続けることができる、そうありたいと思ったからだ。これをしなければ、気持ちの整理がつかないと思ったのだ。
しかし、お礼ということだけで山形まで一人で行くのでは、いかにも仰々しい。と思って、妻と山形県鶴岡市へ旅行に出かけることとした。もちろん、Aさんとの再会が第一の目的だ。妻にその気持ちを話したら、妻はすぐに理解し賛成してくれた。
次は、Aさんへの申し入れである。先方にとっては必然性はない。「必要ありません」「遠慮します」と断られたら、それまでのことだ。勇気を出して、お会いしたいことを連絡した。受け入れてくれた。
5月11日、羽田空港から庄内空港へ入り、酒田市の山居倉庫を見学。尾花沢市の銀山温泉へ移動し1泊した。ちなみに、銀山温泉は、駅のポスターで見て、いつか一度行ってみたいと思っていた。大正時代に造られた木造3階建てのレトロな旅館が林立する、最近人気の温泉地である。日本3大銀山といわれた時代もあり、かつては栄華を極めた温泉らしい。
翌日、松尾芭蕉で有名な最上川で舟下りをしたかったが、雨と強風で船は欠航。出羽三山の一つ羽黒山を経由、国宝五重の塔などを見て、鶴岡市へ入り博物館を見学した。鶴岡市は庄内地方の一都市という認識はあったが、それ以上のイメージにこれというものがなかった。しかし、歴史的に鶴岡は藩校が整備された庄内地方の政治、経済の中心都市であり、すばらしい過去があった。今もその名残を残しながら都市整備され、豊かな街であった。驚いた。
その後、夕方からAさんご夫妻、妹さんご夫妻と会食した。ゆっくりお話しするのは、もちろん初めての6人だが、気持ちのおおらかな方々に、1年前の感謝の気持ちが入り、私はすっかり気分がハイになってしまった。もともと、お酒を飲みすぎる傾向があるが、この日は量はそれほどではなかったが、すっかり酔ってしまい、4時間近い時間があっという間に過ぎた。とにかく、楽しかった。ホテルに帰った後、妻に「しゃべりすぎ!」と指摘された。
5月13日(日)、朝方の飛行機で羽田に戻るべく、朝7時にはホテルを出て庄内空港へ。その日、私は翌日の研修のために、大分へ移動するスケジュールだった。チェックインを済ませ、売店でお土産を求め、手荷物の検査を経て待合室へ移動して出発を待った。そこで出来事が起きた。
構内アナウンスが私の名を呼び、手荷物検査場へ戻れという。何かあったのか。不安な気持ちで検査場に行った。すると「面会人が来ているので、このロビーを一旦出ますか?」と聞かれた。
面会人はAさんと妹さんご夫妻であった。お二人のお母様の手作りという、姫筍の炊き込みご飯、地元の山菜の煮物、和え物などを器一杯に届けてくれたのである。
感激した。嬉しかった。この感謝をどのように表現したらよいのか、「ありがとうございます」という言葉は、自分の気持ちを表現できていなかった。
山形を離れる前に、空港でお礼の電話をしようと思ったが、朝なので忙しかろう、東京に着いたら電話をしようと思っていた。その人が、わざわざ見送りに来てくれたのだ。しかも、あの時刻に空港まで料理を届けてくれたということは、余程に早朝から料理をされたに違いなかった。何と、心の温かい方々だろうと思った。自分の気持ちも温かくしてくれた。帰ってからも、妻と「何て良い人なのだろう」と繰り返した。
庄内空港から羽田空港へは60分。羽田空港から自宅へは50分。11時には自宅に着いた。着替えて仕事の準備をし、羽田空港へ引き返す。先ほどいただいた、筍ご飯と山菜を昼食にした。これが美味しい。もともと山菜は大好物だが、さすがに地元の方の心のこもった味だ。普段、ダイエットのためと食を細くしているのだが、美味しい、美味しいと、珍しくご飯をお代わりした。山菜の煮物は一気に食べてしまった。
2011年3月11日、仙台にいた。震災は、未曾有の災害であり、悼むべきことだ。私にとって忘れることのできないショッキングな出来事でもあった。が、ここに、心を豊かにしてくれた一生の思い出につながった。何と感謝すればよいのか。これを運命というのならそれもよかろう。私にとって、心豊かな、きっと一生の思い出になるであろう、そういう出来事だった。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )