2012 年 6 月 1 日
公務員へのエール - 信念をもって被災地を支えよ
1年が過ぎて、東日本大震災のニュースもめっきり減ってきた感がある。現地の人々は、まだ尚、様々な苦労や矛盾を抱えて生活しているであろうことは想像に難くない。しかし、わが国のマスコミは、特異な事例を物語に仕上げることには熱心だが、苦労や矛盾も日常になれば特異性が薄れるから、その後のことはあまり取り上げない。
復興のスピードが速かったのか遅かったのか、政府や自治体の対応が良かったのか悪かったのか、それは何ともいえない。広域的であり、かつ1000年に一度ともいう大災害であるから、いくら検証しても良し悪しを確定的にいえる性質の話でもないのだろうと思う。単なる責任の追及よりは、次世代への指針となるような問題点の洗い出し、原因と対策の追求、それはそれで冷静にやっていただくことが望ましい。このレベルでのマスコミの感情的責任論が減ったことは良いことだ。
一時には、原子力発電の必要性を話しただけで、人の気持ちが分かっていないだの、御用学者だのと言われ、お気の毒な学者や評論家もいらしたようだ。もっとも、今でも攻撃すべき集団を見つけては「ムラ」などという言葉を使って揶揄するマスコミや評論家もいる。下卑た品性を感じる。
相変わらず、日本列島、どこへ行っても「がんばろう」「応援しよう」「絆」などとスローガンが並ぶ。しかし、少なくとも瓦礫の処理を自分の地元ですることの反対運動や、放射能についての風評被害の報道に触れるにつき、日本列島は、まさに薄情列島であると、私は心を暗くしている。
ある自治体では、首長が瓦礫処理の受け入れを検討してもよい、といった発言をしたとたんに、役所は抗議のクレーム電話で大混乱になったという。冷静に意見を述べるものよりも、感情的なものが多く、しかも、かなりの数が地元の住民ではなく東京、埼玉、千葉という首都圏からのものであったという。自治体の方針に、その地元の住民でない人々が反応する。何処の誰が何を言ってもそれは自由である。しかし、東北の方々の苦労を思いやる気持ち「応援しよう」「絆を大切に」といった思いからすると何とも理解しがたい。
このブログの以前の回で、一部の人のクレームによって震災前に福島県で製作された花火の打ち上げが中止されたり、東北からいただいた神事に使う薪を使わなかったりといった判断を批判した。少数の人の意見を尊重することは大切だ。しかし、こんなことでたじろいでいては、この国は本当にまとまって難局を乗り越えることができるのだろうか。
瓦礫や廃棄物に関して言えば、放射線量の検査をした上で国の基準以下のものに限って移動が許可されているのであり、その基準は私たちが口に入れる食品並みである。それを焼却炉で燃やしても、人体には何の影響もない。それでも心無い住民は「子どもの将来に影響が出たらどうするのか」「出るかもしれないだろう」「出ないと保証できるのか」などと、クレームを言ってくる。まったく科学的根拠のない話である。
放射性物質は、焼却した後の焼却灰に凝縮されるが、これも国の基準は8000ベクレルである。それ以下のものは、セメントの材料にでもすればよい。しかし、この焼却灰が基準以下でも、その受け取りを拒否する業者がいるのだという。影響のないものを、理由なく拒否する姿勢を許せば、間違いなく社会の混乱、間違った風評を招く。こんな業者は、業務免許を取り消しにすればよい。
「たら」「かも」への回答は悪魔の証明といわれ、できようはずがない。
ここでつい「そうですよね」「万が一のことがないとは言えませんよね」「責任は取れませんよね」などと、気持ちで負けてしまうとクレーム対応はできない。答えることのできないクレームには、こちらの意思の強さと信念で対応するしかないのだ。
「お気持ちは分かります。しかし、これは必要な事業です」
「基準があることは、厳然とした事実です。基準に従って判断することが、私ども公務員 の責任です」
「基準以上の『たら』『かも』については、お答えいたしません。何かあれば、そのとき に責任をもって対応します」
「私は一人の人間として、この判断に信念と誇りをもっております」
このように言い切ることが大切だ。
どのような業種にも、クレームは存在する。しかし、被災地の人々への関心が薄まるなか、クレームに対応するすべての人々、特に公務員の方々に申し上げる。社会のために意思を強くもって欲しい。信念をもってほしい。理不尽なクレームには、意思の強さ、そして自らの信念で対応してほしい。
それができない、その意思も信念もなく仕事をするのなら、それは国にとっても、組織にとっても、社会にとっても、何より自身にとっても、実に不幸なことだ。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )