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2012 年 9 月 20 日

竹鶴政孝氏 - ロマン

 私が尊敬する人として、昨年の回で土光敏夫氏を紹介した。今回は竹鶴政孝氏を紹介したい。ご存知の方も多いことと思う。ニッカウィスキー(現在はニッカ)の創業者である。昭和54年に85歳で亡くなった。

 竹鶴政孝氏は、明治27年、広島県竹原市、竹鶴酒造に生まれる。
 大阪高等工業学校(今の大阪大学)で醸造学を学び、兵庫県の摂津酒造(後に合併して現在の宝酒造)に入社する。同社はそれまでも洋酒を造っていたようだが、当時は模造品で本格的なものではなかったようだ。日本初の本格的スコッチウィスキー造りを目指した同社は、大正7年、竹鶴氏をスコッチウィスキーの本場、スコットランド、グラスゴー大学に留学派遣する。

 彼は、スコットランドでウィスキー造りを本格的に学んだ初めての日本人である。ウィスキーの製法はもちろんだが、他にも様々なことを学ぶ。例えば労働制度である。
 当時の日本の造り酒屋の勤務形態は、ある意味で徒弟制度である。住み込みの従業員は奉公人として、公私の区別があいまいなままに働く。雇い主と従業員とは、立場、身分が明確に分けられており、同じ場所で一緒に食事をしたり、ともに行動したりすることはない。連続した休日も「おひま」をいただくことがない限り自由には取れない。
 しかし、スコットランドでは、従業員の休日はきちんと決められており、社長も従業員もそれなりに議論する。日曜日には、皆が同じレベルの教会のフロアで礼拝に参加する。時には同じ食事をともにすることもあったのだろう。今日の日本では当たり前であるが、当時のスコットランドでは、雇用は契約により決まっていたのである。
 このことから、彼は日本の企業の雇用も改善すべきであると強く思っていたようだ。当時の彼のメモには、そのことの記載があるという。
 氏は、大正9年にスコットランドから帰国する。しかし、世界大恐慌の影響で、摂津酒造はウィスキー造りを断念。氏は大正11年に同社を退職する。

 時を同じくして、大阪の寿屋酒店(現在のサントリー)の鳥井信治郎がウィスキー造りを志す。スコットランドに技術者の派遣を打診したところ、そちらに竹鶴政孝がいるだろう、ということで派遣依頼を断られたというエピソードが残る。大正12年、竹鶴は10年契約で寿屋に入社し、山崎に新設された山崎蒸留所の工場長に就任する。工場長といっても、当時の従業員は本人を入れて2名、部下が一人いただけだったらしい。そこで、わが国で初めてのスコッチウィスキーを造る。これが、後のサントリー白札である。今もサントリー山崎蒸留所、ウィスキー山崎は同社の看板だ。
 山崎は大阪と京都の境、現在の大阪府島本町である。ウィスキー造りに適した水が湧き出て、気象的に霧がかかりやすいということで立地したらしいが、如何せん気温が高い。彼は、より良い品質のウィスキーを造るため、スコットランドとほぼ同緯度の北海道にウィスキー工場の建設を進言する。しかし、社長の鳥井は輸送コストなどの問題等でこれを却下する。昭和9年、彼は寿屋を退職する。

 同年、竹鶴は質の良いウィスキーを造りたいとの一念で北海道に渡り、小樽の南、余市町にウィスキー工場の建設を目指す。40歳である。しかし、本格的なウィスキーは樽に仕込んでから5~6年を経ないと出荷できない。つまり、当初は毎年新酒を仕込むのみであり資金は持ち出しである。そこで、周辺のリンゴ農家から出荷できないリンゴを買い求め、それを絞ってリンゴジュースを造った。ジュースを出荷して得た利益を、次のウィスキーの仕込みの資金にあてたのだ。農家の人にとっては、出荷できないリンゴを買い取ってくれるのだから、それは大変喜ばれたという。
 ニッカウィスキーの前身は、大日本果汁株式会社。最初の製品は日果林檎ジュースだったという。ニッカの名前はその日と果から発しているのだ。

 私は竹鶴氏本人にお会いしたわけではない。書いたものを読んだりHPで調べたり、余市のニッカウィスキーの工場を訪ねたりして情報を得た程度である。しかし、それほどの情熱を傾けて40歳で脱サラ、今流に言えば起業した姿は、私の気持ちにどこか熱い思いを感じさせる。
 夢を抱き、目標をもち、学び、組織を動かそうと努力する、それでもダメなら自らリスクを冒して起業する。起業といっても今とは環境も違っただろう。まして、北海道余市町といっても、今ほど交通も環境もよくはなかったはずだ。広島出身の竹鶴氏にとっては、極寒の地である。それを乗り越えて夢を叶える。
 まさにロマンではないか。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )