2012 年 12 月 14 日
恥ずかしいこと - なぜか思い出す年の瀬
今年もあと半月で終わろうとしている。嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったことなど、いろいろなことがあった。
なんといっても、今年一番に嬉しかったことは、5月に山形で素敵なAさんご一家に再会できたことである。空港での手作り料理のサプライズプレゼントは「地震のとき仙台にいました(その6)」に記したとおりである。このことは一生の思い出に残る感激である。このことがあったから、今月、Aさんをクリスマスパーティにお誘いした。そして、そのお料理を作ってくださったお母さまとともに、わざわざ東京までお越しくださった。5月に続き、東京で楽しく食事ができた。これは、一生の思い出になるだろう。
年末、思い出をたどっていると、なぜか過去のことを恥ずかしいこととして思い出すことが多い。それは、子どものときのことであったり、社会に出てからの失敗であったりする。また、昨日今日の出来事だったりもする。
たとえば、前述したクリスマスパーティや銀座での会食でも、もっとこうすればよかった、本当は皆さんがムッとされたのではないかと、月並みにいえば反省、感覚的にいえば恥ずかしい思いをするのである。
昔のこと。たとえば、28歳。用地交渉の場で正論を述べて、地権者をひどく怒らせてしまい、応接室から立ち去られてしまったこと。その家の応接室にポツンと残されてしまい、奥のほうに声をかけてもその方は出てきてくれず、そっと玄関から辞去したことがあった。本当に惨めであった。今、考えても恥ずかしい。当時は若かったので「あのくらいのことで、そんなに怒らなくてもいいだろう」「正しい考えを述べたにすぎないのに」と、反省などしないで不満たらたらであった。
今、思えば、何ということはない。若気の至りであり、言い方に配慮がなかったからであり、結局は常識のなさである。
他にも、子どものころ人にウソをついたこと、親にウソをついたこと、迷惑をかけたことなど、それは誰にでもあることなのかもしれないが、悪夢のように思い出すのだ。
それがかなり前のことであれば、もうそのことは自分の気持ちの中にしかないのかと思う。相手は忘れているかもしれない。しかし、もう一度その場に戻ってやり直したいとかその方に会ってあの時のことをお詫びしたいと思う。が、時間は戻すわけにいかない。
では、これらの恥ずかしいことの数々を、自分はどのように消化していけばよいのか。これは、もう神様にお詫びして許しを請うことしかあるまい。このままでは、私は地獄に落ちるのだろうか。一般に、年齢を重ねると信仰心が深まる、と聞いたことがあるが、そんなものだろうか。
あたたかくもほろ苦い、年の瀬の日々である。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )