2013 年 5 月 31 日
人格者 その2 - 町田宏氏
前稿で、私に取っては「人格者」と思う人が2人いらっしゃると書いた。もちろん、土光敏夫氏、小倉昌男氏など、私の尊敬する人々も、人格者であろうことは間違いないのだと思う。しかし、親交があったわけではない。ここでは、身近にいる方で、その方と何度も話をして、直接的に薫陶を受けた、という意味で本当にこの方は人格者であると思うお2人のことを整理してみたいと思った。おこがましいことかもしれないが、畏敬の念を込めて、ということでお許し願いたい。
前回に書いた横江芳二氏と、もう1人は当社の講師であった町田宏先生である。先生は今年1月、鬼籍に入られた。
先生は、昭和2年、横浜生まれ。大学は中国、奉天で冶金学を学んだという。
終戦当時、奉天も旧ソ連軍の攻撃を受け、氏の下宿先の地域一帯も相当に理不尽なことになったという。そんな中で、学生だった氏は下宿先の用心棒的存在だったといい、それは命の不安もあったらしい。付近の中国人女性は、お腹に巻物を巻き、妊娠しているように見せたという。妊娠している女性には、ソ連兵も手を出さなかったというのだ。カモフラージュである。いずれにしても、学生時代に中国で生死を危ぶまれるほどの時代を生き抜いたという。このことは、断片的に何度か話を伺ったが、進んで語りたいというふうではなかったように思われた。言葉にできない切なく悲惨な出来事もあったに違いない。
日本に帰った後、結核を患う。この前後の詳細は知らないが、療養生活を経てキリスト教に入信。鎌倉市に奉職。同じ教会に通っていた女性と結婚。56歳で市を退職し、地元で話し方スクールを主宰した。
私が先生と出会ったのは、その2~3年後である。先生が59歳か60歳か。講師をお願いする立場でお会いし、その後も公私を通じて親しくしていただいた。
先生は、どことなく品がよく穏やかなもの言い、英語、ドイツ語、フランス語も少しばかり理解され、言葉づかいもていねい。お酒を飲んでも決して乱れることはなかった。人の意見をにこやかに聞き、自論を穏やかに語るときも表立った反論、議論はせず「困ったものだね。何とかならないかね」などとしみじみと問題提起はされるが、結論を強要することは決してなかった。私のように若い者の話も聞いてくれたし、よく酒にもお誘いくださった。とにかくよく聞いてくれるので、つい自由に話してしまう、それでいてこちらが薫陶を受ける、これぞ「師」なのだろう。
また、先生は生涯飛行機に乗らなかった。札幌の仕事でも、講義の前後の日程を空けて、列車で出かけた。いつもグリーン車であった。「飛行機など風情がない。だいいち、あんな鉄の塊が空を飛ぶなんておかしいだろう。景色を見ながら移動し、語らいながらお酒を飲む、これが何とも楽しい」とおっしゃって、いつもそうだった。
ある日、新幹線での車内アナウンスが話題になった。新幹線が途中の駅に止まるとき、英語のアナウンスで「we will be brief stop at nagoya」という。ブリーフというと男性の下着を思い出す。ブリーフとは何だと。そんなたわいない話もあった。
広島にご一緒したときには、前日に尾道に行きたいとおっしゃり、ご一緒した。先生は塔を巡るのがお好きだった。千光寺の境内で五重塔の水彩画を写生された。私は傍らに座ってただ景色を眺め、絵を描く姿を眺めるだけだったが、ゆっくりと時間を過ごしたことが懐かしい。
その仕事の帰りには、広島から東京まで5時間近くの移動、グリーン車と食堂車を2往復し、ビールとウィスキーを飲み、話し続けた。100系の車両である。グリーン席と食堂は2階にあった。先生と優雅に濃い時間を持てた、これもいい思い出だ。今日、新幹線に食堂車はない。あれば、先生を思い出しながら飲めるのだが。
大阪に研修でご一緒したときには、帰りに京都に行こうということになった。この時は、女性のアシスタント講師も含めて、5~6人がご一緒した。先生は、ダイヤモンドソサエティというリゾートクラブの会員権をお持ちで、ゴージャスなホテルに全員で宿泊し、ゆったりと食事をして、タクシーをチャーターして見物をした。
会員権の取得にいくらかかるかは知らないが、会員権があれば、1泊当たりはそれほどの負担ではない。贅沢な時が過ごせる。こういうのもいいと思った。大人とはこういうものかと憧れた。
私自身、アイベック・ビジネス教育研究所で独立してから、ある意味で先生に教えられたとおりにそうした。東急ハーベストクラブの会員権を取得し、毎年家族で軽井沢に数回行く。たまには兄弟親戚を招待している。もちろん社員にも使ってほしいことが第一義である。講師は豊かな気持ちを持たなければならない。先生への憧れでもある。
フォスタープランという発展途上国の子どもたちへの支援事業がある。先生はそのこともお話しされた。「最近、ある子どもの教育支援で寄付を始めたら、その子から手紙と写真が送られて来た。それが、かわいいんだよ」と嬉しそうに。この団体では、相手国の子どもにも「あなたへの支援は、日本の○○さんからだ」ということを明かすそうで、その子から手紙が来るのだという。
発展途上国への支援のあり方には、いろいろな意見もあろうが、この時の先生の微笑が今でも忘れられない。先生は決してそのことを私に勧めはしなかったが、今回、先生が鬼籍に入られたことをもって、私もその寄付を始めた。
かつての私は、寄付というと赤い羽根とか、24時間テレビとか、歳末助け合いとか、募金箱に小銭を投入するくらいのイメージでしかなかった。興味も問題意識も持ってはいなかった。現在、私は「あしなが育英会」「ユニセフ」「国境なき医師団」に、少ない金額ながら継続して寄付をしている。定期的に一定額を継続して寄付するという概念を、身近に教えてくれたのも先生だ。
後になって三浦綾子氏の本で読んだことだが、キリスト教を信仰する人の考え方には、収入の10%を目安に社会に寄付で還元すべきというのがあるらしい。10%は思い切れない決断だが、継続することの意味は町田先生から学んだ気がする。
以上、いくつかのエピソードを表してみたが、他にもいい思い出、言葉にできないほどの思い出は多い。人柄としても、穏やかな、品性のある、思いやりのある、いつでも話していたい、ああいう人になりたいと思う、まさに言葉にできない。それが人格者であろうか。
晩年は、足腰が弱くなり、私が最後にお目にかかったときも、家の中を歩くにも苦労されていた。庭に下りることはできても一人では縁に上がれない、転んだら一人では立ち上がれないほどだった。
しかし、冗談やシャレはよく飛ばしていた。思いがけないところでおっしゃり、ペロッと舌を出す。地茶目っ気たっぷりの感だった。
その後、認知症の症状がみられ、介護施設に入られたそうだ。施設に入られる直前に、奥様が自宅で倒れ急逝された。それから約1年半、先生も亡くなられたのだが、その間奥様のことは一言も語らなかったという。これも、深い愛情と信じたい。認知症が深くなっても、施設で周囲の人と話し合い、歌い、冗談を言っていたそうだ。
亡くなる前の日も窓辺で歌っていたという。
「ケ・セラ・セラ‥‥‥」
私はこれからも、先生を目指し、夢見て生きていく。
ご冥福をお祈りする。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )