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2013 年 10 月 16 日

ANA その2 - 浅田正機長メモリアルフライト

 私にとって、全日空という企業を語る上で、西多賀養護学校(現、西多賀支援学校)という名前が忘れられない。
 なぜ航空会社が養護学校に関係するのか。

 同校は、宮城県にある。
 昭和33年、この学校に一羽の傷ついた伝書鳩が舞い込む。当時は、全国的に伝書鳩を飼育することがブームになっており、この学校でも生徒指導、教育の一環として、鳩舎を持っていたらしい。
 その傷ついた鳩は、足に付けられた附表から東京の人のものだと判明した。子どもたちは、東京に帰したいと願う。しかし、お金がない。障害をもっている子どもたちが、東京までそう簡単に行くわけにもいかない。
 当時はもちろん新幹線はない。東京、仙台間は急行列車で5時間以上かかる距離である。飛行機は、座席数30人ほどの機材で1日数便が飛んでいたようだが、庶民には乗ることができる金額ではなかった。
 養護学校の生徒たちには手段がない。
 しかし、真心と知恵と希望があった。当時の養護学校は、仙台空港に近い場所にあったという。そこで、生徒たちは仙台空港に行き、たまたまそこにいた全日空の機長、浅田正氏にお願いしたのだという。浅田機長は鳩のかごをコックピットに乗せて運び、東京の住所まで届けてくれた。

 そのことが縁で、浅田氏は仕事で仙台に行くと、時折養護学校を訪ね、子どもたちと交流し、さまざまなプレゼントを持参したという。
 氏はいつしか、養護学校の生徒たちに空を飛ばせてあげたい、空から街を見せてあげたいと思うようになる。そのことを会社に頼みこむ。会社が動いた。当時、氏は羽田、千歳、福岡を飛んでいたらしいが、会社の特別の計らいで、ある日、仙台便に乗務し、仙台空港からDC-3(30人乗り)で、子どもたち50人を2回に分けて遊覧飛行をプレゼントすることになったのだという。
 私が空に憧れた世代よりもっとずっと前のこと。庶民にとっての飛行機は、夢のまた夢の時代である。当時の子どもたちの思いは幾ばくか。想像を絶するほどの緊張と興奮だったろう。

 氏は、その後、全日空初のジェット機のパイロットの一人として、訓練のためにアメリカへ渡り資格を得て、ボーイング727の機長になる。が、昭和42年、病に倒れ、46歳の若さで亡くなる。

 平成17年、養護学校が当時の資料を整理していた。その一環として、当時の資料がないかを全日空に問い合わせたという。全日空側にはその記録は残っておらず、現役社員には詳細が分からない。しかし、心温まるエピソードだとして調べた結果、浅田機長の奥様がご存命であり、当時の写真が残っていた。奥様は、それらにエピソードを添えて全日空、養護学校に提供した。

 そのことが、全日空社内で話題になった。社員有志が私費を出しあって実現したのが、浅田正機長メモリアルフライトだ。
 平成18年4月、西多賀養護学校の生徒を夢の大空へ連れて行く遊覧飛行である。社員有志が休暇を取って仙台に集結した。もちろん機体は会社の提供、300人近くが乗れるB-767。
 養護学校の生徒だから体の不自由な子もいれば、寝たきりの子もいる。障害を持った子どもたちを飛行機に乗せることにはさまざまな制約があり、一筋縄ではいかなかったらしい。
 医師の搭乗許可が下りなかった子どもたちには、仙台空港のロビーに椅子を並べてにわか機内をつくり、実際の飛行機を見ながらキャビンアテンダントが航空教室を開く。医師の許可が下りた子どもの中には、寝たきりの子もいたのだという。その子のために、ベッドを飛行機の天井から吊るし、上を向いて寝たままでも見られるよう、キャビンアテンダントが手鏡で窓の外の景色を見せたという。

 この様子は、同校のホームページに写真付きで載っていた。
 私の子どもの頃の空へのあこがれ、これは誰もが持つであろう月並みなことかもしれない。しかし、障害を持った子どもたちのこの日の思いには、私の数倍、数十倍の夢が詰まっていただろう。それが叶えられたことの歓びを想像するとき、私には言葉にできないほどの感情が渦巻いた。パソコンの画面を見ながら泣いた。
 残念ながら、このフライト行事の写真は、現在、ホームページから削除されている。その理由は分からないが、私には残念でならない。
 なぜこの学校だけなのか、万一事故でも起こしたらどうするのか、などというクレームが関係者に寄せられたのかもしれない。

 社員有志が、業務外でこういった企画を実現させる。やろうということになったら、皆がノリノリになる。全日空は、そういう会社らしい。
 自由闊達、躍動的、いや、ちょっと違う。そうか「安心、あったか、明るく、元気」だ。その社風を感じるとき、私のファーストチョイスは全日空なのである。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )