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ブログ

2014 年 2 月 8 日

お言葉でございますが その5 - 言葉の軽さ、思いの軽さ

 私は、ツイッター、フェイスブック、ラインなどを利用していない。利用している友人からは、便利、楽しい、役に立つなどの声を聞くが、使ったことがないし、使わなくても特段の不便さを感じないので、そのことが実感として分からない。
 日経ビジネス(1月20日号)のコラムに、インターネットのツイッターに書き込まれた文章と、それに反応した書き込みの一部が紹介されていた。コラムニストのO氏の連載である。

 今年の1月3日に、東京有楽町で新幹線線路脇のパチンコ店が火災になり、新幹線が数時間止まった。その際の、ある列車内に数時間閉じ込められた乗客からのツイッターへの書き込みである。この人はその間立ちっぱなしだったので、グリーン車の空き席にせめて高齢者、子供連れだけでも座らせてくれないかと、車掌に頼んだのだという。
コラムに紹介されたネットの書き込みの言葉の一部である。
「ちょいと新幹線の車掌さんよ‥‥‥、」
「全っっっ然、やさしくなーい。」
「お願いお願いって言ってもダメだった。」
「あたいの説得力の無さったら‥‥‥チーン」

 この記事が“炎上”したのだという。このツイートに対して、膨大な量の書き込みが寄せられたのだそうだ。O氏によると“どれもこれもが”以下のようなものだという。
「乞食か?」
「一生涯要求だけしてろよ、クズ」
「新種のクレーマーだな」
「てめえみたいな客がいるから、余計な仕事が増えるんだろうが、ゴミ」
といったものだったそうで、O氏は「ネット言論においては、もはや、“残酷”が規定値になっている」と解説している。

 インターネットは、無機質な媒体を介してデジタル信号をやり取りし、パソコンなどの画面で活字化されて読むので、書き込み自体がお互いに軽い気持ちなのだろう。面と向かっていたらこんな表現はしないだろうと思う。「チーン」にしても「クズ」にしても、思いがそれほど深刻でないからつかえる言葉なのだろう。

 人の考えには完全はない。矛盾もあるだろう。主張することも自由だが、反論することも自由だ。また、言葉が有限である以上、言葉をつかって完全な思いを表現することもでき得ないことも事実だ。
 一方、人間は言葉をつかわなければ考えることができない。言葉をつかわなければ他人に考えを伝えることもできない。間違いなくいえることは、考えや思いが深ければ言葉を選ぶであろうことである。反対に、言葉を選ぶこと、言葉によって表現しようとする意味を深めることが、考えや思いを深めることになるのである。

 インターネット上で議論し、書き込みをしている人々も、意見を述べ合うという意味では、少しは考えを深めているのであろう。しかし、こういった書き込みの応酬では、考えや思いがそれほど深まるとは思えない。むしろ、人間が本来持ち得る、他人への優しさや思いが削がれていくのではないだろうか。
 インターネット上だから書けるのだろうが、一方でそのような人が面接で会話した時に発する言葉とは、その人の本質をどちらがより表しているのだろうか。

 少なくとも「チーン」も「乞食」も「クズ」も「ゴミ」も、直接的に相手方に発する言葉としては、私の日常の会話にはない言葉である。また、他人がつかうにしても、私にとっては思いもよらない言葉である。読むだけでも心が暗くなる。
 インターネット上の書き込みで、こういった言葉が常識化、常態化しているのであれば、ツイッター、フェイスブック、ラインなどは、私には当分、縁がなくてもよいと思える。便利さよりも大切な、知恵と思いを深めるために。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )