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2014 年 3 月 10 日

名誉棄損 ― これを叫ぶ不快な人間性

 不快な人間性などというサブタイトルをつけること自体が、よろしくないことは承知している。しかし、どういう言葉で言い表したらよいのか、自身の語彙の少なさを恥じ入るしかないが、私にとってそれほど不快なニュースがあった。

 Sという耳の聞こえない作曲家が、実は自身で作曲していなかったことがマスコミで取り上げられ、そのことに関する謝罪記者会見が行われた。
 私は、不勉強であるから、この男の存在も、その作曲したとされる曲が評価を得ていることも実は知らなかった。その「HIROSIMA」という交響曲があることについて、おぼろげながらそうだったかなと思うくらいである。

 その会見はその日(3月7日)のニュース、そして今日まで各種番組で何度も取り上げられた。私も否応なしにその一部を見ることになったのだが、それは実に後味の悪いものだった。
 この男が、長い髪を切り、髭も剃って会見場に現れた姿は、その前の姿と比べると、作曲家を名乗っていた時期のあの姿が虚構なのだったのだと直感した。反省したのかとも、50歳の男の面構えとしては悪くはないとも思った。
 耳の聞こえない作曲家としてのパフォーマンス、障害者手帳の対象にならないのにそれを受け、NHKの特集などの取材にも虚構を演じていたこと、自分の嘘を謝罪する会見、そこまではそうなのだろう。

 問題は会見の後半である。質疑応答の一場面で、今回のことを白日のもとにさらした作曲家を、名誉棄損で訴えると言いだした。しかも、内容は自身の耳が聞こえるか聞こえないかの部分、作曲家が謝礼金を高く要求したという部分である。「お前だって、悪いじゃないか」とでも言いたいのだろうか。まるで子どもの喧嘩である。中高生のディベート大会にもはるかに及ばない。
 他者が聞こえると感じたか、本当は聞こえないのか、金銭の多寡について要求があったのか、なかったのか、これらは枝葉末節な問題であろう。いずれにしても、金を払って作曲を依頼したことの大筋が謝罪ではないか。
 50年の人生を歩んできた、やったことの是非はともかくも、それなりに社会を動かして来た一人の人間が、見解の違いについてそこまで言う必要はない。

 会見場に相手方はいないわけだから、即座に反論を受けるわけではない。真摯な人間性の持ち主なら「名誉棄損で訴える」という言葉の前に、少なくとも「もう一度、話し合ってみます」と言えないのだろうか。話し合った結果、相手が納得しないのであれば、もう一度別の角度から考えてみて、必要なら「もう一度、話し合ってみたいと思います」が正しいのではないか。当人同士で話し合いができなければ、誰かに立ち会ってもらえばよい。そういう努力の結果、止むに止まれずにすることが訴訟なのであろう。

 挙句の果てに、別の質問に対して、自分の妻のお母さんについて、妻が「名誉棄損で訴えると言っている」とまで言いだした。主語が妻なのだから余計なことだ。
 妻のお母さんの件も、背景に誤解があるのなら「直接会って説明します」と言うべきだろう。たとえ最後まで意見が違っても、人生の先輩の忠告と受け取り「考えてみます」ということで収めることが当たり前の人間性であろう。
 所詮、この男にとってトラブルや見解の違いは、勝ち負けでしかないのではないのだろう。今回の件で損害賠償にでもなったら、誰かにいくらかでも払わそうということか。それにしても、自分の身内の名誉棄損は損害賠償には関係ない。

 最近は、何らかのトラブルを勝ち負けで判定しようとする人間が増えたように思う。また、そういう感覚の人間は社会にいる。近づかないほうがよいタイプだ。本人は事実だ虚偽だと真剣なようだが、事実や勝ち負けなど所詮は主観的なものであり、真の事実や価値は神様にしか分からない。
 私は、世間のクレーム対応について指導することが仕事になっているが、一部のクレーマーは、自分の主張がにわかには認められないと、安易に「訴えるぞ」といい出す。自分の主張に無理があれば、現実に訴えることはまずない。つまり、相手を威圧するためのコメントである。浅はかな人間性が見え隠れする。
 
 個人間のトラブルについて訴訟で決することは、社会的な理屈ではある。しかし、その前に話し合いがある。話し合いは、相手方の人間性に対する思い、他人を理解しようとするものがベースであるべきだ。お互いの人間性を信じ、お互いがそれを高めようとする姿勢でやるべきである。そうすれば、周囲の人たちも助けてやろう、協力してやろうという気にもなろう。

 私自身は、この問題について特段の興味はない。あの男の会見を垣間見て、実にいやな気持になった。結局は不快な人間性を感じたまでだ。これ以上コメントすることもないし、その気もない。
 しかし、マスコミは格好の話題として、今後もワイドショー等で取り上げるに違いない。個人間の勝ち負けは公共の電波に載せなくてよい。無視しよう。こんなニュースは、その情報を受ける人の気持ちが汚れる。受ける人の気持ちが豊かになる、厳しい(うつくしい)情報を報道してもらいたい。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )