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ブログ

2014 年 3 月 11 日

地震の時仙台にいました その7 ― あれから3年

 3月11日、あれから3年が過ぎた。
 あの日、2011年3月11日(金)14時46分、私は仙台市内で講演をしていた。そのことは、このブログの当該ページをご覧いただきたい。
 その間に、いろいろなことがあり、いろいろな思いがあった。今も、社会にも自分の中にも、解決できていないことや思いが多くある。

 それにしても、今もなお、まざまざと思い出す。あの時を、だ。電気が消えた、とにかく寒い、雪が降る、交通手段がない、電話が通じない、何もできない状況のなかで、切なかった。鶴岡市のAさんに出会えたことが、まさに転機であった。あの時、Aさんに出会えていなかったら、あの状況の仙台に私はもう3日はいただろう。たとえ仙台を脱出できたとしても、何処をどう経由して東京まで帰りついたか、食事もできない中で、果たして体力が持ちこたえたか。私の人生は、間違いなく今とは違っていただろう。考えると恐ろしいことだ。

 Aさんに出会って、ずうずうしくも車に便乗させていただいて、鶴岡市に脱出できた。しかもあの日、鶴岡市は停電していなかった。その鶴岡市に庄内空港という空港がある。全日空が運航していたから、私は2日目の朝には羽田に着けたのだ。鶴岡市が停電していたら、飛行機の運航もなかっただろう。本当に、偶然がよいほうに重なった。そのきっかけのAさんは、まさに恩人である。一生涯、感謝しても仕切れるものではない。
 その後の、Aさんとのことについても、ブログの当該ページをご覧いただきたい。

 3年がたって、復興の遅さ、問題点を指摘する声が多い。また、仮設住宅に入っている人々の不自由な生活、避難を余議なくされている人への援助の遅れを指摘する声も然りである。
 そのことについて、本稿ではコメントしないが、折りしも3月11日の前日、3月10日は東京大空襲のあった日でもある。昭和20年3月10日夜、東京はアメリカの爆撃機の空襲を受け、一晩で10万人以上が死に、東京の下町を中心に多くの家が焼かれた。街全体が、住民もろともなくなってしまった所もある。
 地震と戦争を比べることに意味はないし、戦後生まれの私にはそのことをコメントする資格もない。しかし、人生には、自分の努力ではどうしようもないことがあるということであり、それが現実だということだ。その現実は各自が受け止め、自分の中で気持ち、考えを昇華させていくしかないのである。国や自治体の復興も大切だが、一人一人の気持ちの復興はどうか。

 逆境があっても、それに耐えて、それをばねにして頑張っていく人もあれば、少しばかりの不幸を恨んで人に不満をぶつけながら生きていく人もあるということだ。災害や事件の直後は、誰でも冷静になれないものだ。しかし3年が過ぎて、人はそれぞれ違ってくる。3年とはそういう時期なのではないか。

 今回の災害の避難者は、いまだ20数万人。その中で、原子力発電所の事故で、避難を余儀なくされている人が、今なお10数万人いる。
 その中には、東京電力から1億円もの補償金を得て、高級外車を乗り回し、職には就かず、毎日パチンコ通いという人もいるのだという。避難した住民を受け入れたコミュニティの人々は、こういった避難者を必ずしも好意的に見ていない現実がある。ある町では、元から住んでいる住民と、避難してきた住民との間にトラブルが起きているという。不幸なことである。

 先日、ある県に伺った。クレーム対応の研修会である。受講者である県庁職員の中に、福島から避難して来ている人々の相談に乗ったり、各種旅行やイベントを行ったりする担当の方がいらした。こちらが、何とか喜んでもらおう、希望をもってもらおうとして行う無料の各種行事に対して、避難してきた人の中には施されることが当たり前だと、あまりに理不尽、わがままなクレームを言う人が多いのだと、だから研修に参加したと、その方は眉をひそめて私に語った。

 周囲の避難生活によって今までのコミュニティから離れ、ストレスが高じて健康を害する人もいるという。基準としては避難する必要のない地域に住んでいた人が、将来を悲観して自主的に避難し、生活苦にあえいだり実際に生活が壊れてしまったりした人もいるという。

 3年が過ぎ、ある地区では故郷へ帰ることをあきらめて、新天地で新しい生活を始める道を選んだ人も大勢出てきたという。元の町に帰れないことは、そこだけを見れば淋しいことだろうし、無念なことだろう。しかし、多くの行政が行おうとしている、新規の巨大防潮堤の建設や土地のかさ上げを待っていても、あと何年かかるか分からない。防潮堤やかさ上げ工事の終了時にバラ色の街並みができるかというと、それは大いに疑問だ。数十メートルの壁に覆われた、海の見えない海辺の町に誰が魅力を感じようか。かさ上げした場所が家を建てる地盤としてふさわしいかどうかは、建築学を学んだ私には容易に判断できる。区画整理をしようものなら、早くてもさらに数年はかかるだろう。

 3年が過ぎて、破たんした状態から再起し、民宿、飲食店、工場、漁業を再開し、まさに復興を果たした人もいる。地元以外、元の職業以外で、新しい生活を始めようとしている人もいる。そういう人にこそ、私はエールを送りたい。
 被災者の気持ちが分からないから無責任なことを言う、と言われればその通りかも知れない。自分ではどうしようもなく、社会全体の復興をじっと待っている人を否定するものでは決してない。

 果たして幸せな境遇でも、不幸な境遇でも同じことだ。「幸せはいつも自分の心が決める」のである。
 結局は、自分の意思でどうにもならないことは、誰を恨んでも仕方がないのだ。受け身では何も変わらない。
 3年が経って、自分の気持ちを自分で昇華させ、何らかの決断をしてほしいものだ。それこそが復興である。
 国もそういう人にこそ、支援の手を差し伸べてほしいものだと思う。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )