2014 年 3 月 20 日
一番美味しいものは何ですか その5 ― 埼玉県自治セミナーハウス
「全国で一番美味しいものはなんですか」と、よく人から聞かれる。これほど困る質問はない。私は食べることが好きである。かといって、三ツ星レストランをめぐるとか、食材の勉強をしたとかいう本格的なグルメではない。基本的に、何を食べてもまずいと言わない、これが私のいうところのグルメである。何でも、美味しいのである。
それでも、これは全国で一番と思える食堂がある。埼玉県自治セミナーハウスの食堂である。
仕事柄、講演、研修で全国を旅している。したがって、企業の社員食堂、県庁・市役所の食堂、研修所の食堂を利用する機会がある。たいていの食堂は、一般のお店より値段が安い。定食、麺類、カレーライスなどを提供していることが多い。食事をするのには、実質的である。特別に贅沢なところはないが、それなりに特徴がある。
その中で、標記の埼玉県自治セミナーハウスの食堂は別格だ。私の人生で決して忘れることができない場所である。セミナーハウスは、埼玉県と県内の市町村がつくる外郭団体の職員研修施設であり、埼玉県秩父市(旧、荒川村)にあった。吹き抜けのロビー、100名以上宿泊できる個室、大中小の研修室、体育館を備える宿泊型研修施設だ。南側には荒川の清流を抱く、リゾートホテル並みのロケーションだった。
私は、十数年前に初めて研修で伺う機会をいただき、それから研修を何度も担当したので、この食堂には朝、昼、晩と何度もお世話になった。この食堂は、地元の飲食店組合が委託を受けて経営しているのだが、実質的にはこの施設のある白久地区に住むAさんご夫妻が施設開設当初から運営しており、ときにはご子息やそのお嫁さんも手伝うので、事実上はAさんファミリーのお店といった印象である。
私は、初めての食事をいただいたときから感激した。食材のほぼすべてが地元の産物であり、多くが食堂の方、Aさんの畑や池で採れたものである。量が豊富。例えば、けんちん汁などはお椀に具材が山盛りで、汁が見えないほどである。
特に感激したのは、夕食に鯉のあらい(刺身)や鹿肉の刺身が出るのである。それなりの料亭や居酒屋、観光地の旅館なら分からないでもないが、これが供されるのが公共施設の夕食である。しかも、切り身も厚く、量も多い。
鯉は、自宅の池で飼っているものだそうで、酢味噌を付けていただくと実に美味しい。
鹿は、Aさんが地元の猟友会の会員であるので、ご自身で獲ってきたものだという。珍しいし、まさに地場の物、それほど癖もなく、さっぱりして美味しい。
朝の食事には、ふんだんのジャムが数種類。これも自家製。好きなだけ食べていい。色は鮮やかではない。キュウイのジャムなどは真っ黒だ。それがまた自然でいい。食べれば明らかにキュウイそのものの味が凝縮している。
研修が3日間とすると、2日目の夜、Aさんは夜遅くまでそば打ちをする。それを寝かして、3日目の昼は、自家製手打ちそばだ。てんぷら付きで、これも周囲の山野草。何と言っても美味しい。そのそば湯はねっとりして実に濃い。こんなに美味しいそば湯は私にとっては今もって比類がない。そば湯を飲み過ぎて、苦しくなってしまったことが何度もある。
鯉にしても、鹿にしても、野菜にしても、ジャムにしても、そばにしても、Aさんのこだわりである。もう一度言う。これが、秩父の料亭ならいざ知らず、公共の研修所の食堂である。大感激。こんな公共施設の食堂は、今もってそこだけ。聞いたこともない。全国一だ。
しかし、鯉の洗いや鹿肉の刺身は食べられないと言う受講者が出る。食事の味付けが濃いだの辛いだのという人も出た。確かに濃い。しかし、それは秩父の土地柄とでもいうべきではないか。郷土料理と思えばよいのである。
施設では、一時それがクレームになったようだが、所詮は感覚の問題だ。鹿が気持ち悪いというなら、なぜ豚や牛は良いのか。結局、好き嫌いの問題でしかない。特に夕食はメニューが豊富で、他にも食べるものはある。私は、そういう受講者とおかずを交換してあげたものだ。結果、私のもとには鹿肉が数皿集まる日もあった。
「数年に一度、2泊するだけでしょう。珍しいものを食べることができる。これは皆さんの地元、埼玉県秩父の地元の産物ですよ。何よりもAさんの気持ちを感じるでしょう。そのことに幸せを感じようよ。」と、私は研修の講義の合間にそのことを何度もアピールした。
しばらくして、まったく別の地方で勃発した鯉ヘルペスの影響で、鯉はメニューから消えた。また、どこかの食中毒事件を受けてか、保健所の指導があったようで、鹿肉の刺身は加熱してソテーや野菜炒めの具になった。鹿と分からなければ、おいしいと言って食べていたのに、それが鹿と聞いて残す受講者もいた。
食堂の傍らで販売していた、秩父の特産物(お土産)も、研修で来ている職員がお土産を持ち帰るとはいかがなものか、といった理屈で撤去された。秩父は埼玉県内の西の端、山間の地である。同じ埼玉県内の自治体の職員も、知らなかったであろう県内の特産物に触れる、それを自費で購入して持ち帰る、そのほうがよほど価値あることだと思うが。
そして、2年前、財政の問題からか、この研修センター自体が廃止になった。聞くところによると、建物も解体されているという。
しかし、あの味、あの感動、そしてAさんご夫妻のあの笑顔は、私の記憶にずっと残るであろう。間違いなく、全国一番の食堂なのである。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )