TOP 1つ戻る

ブログ

2014 年 4 月 12 日

茨城県日立市 ― 日立さくらまつり

 家内と“日立さくらまつり”に行った。お花見である。
 日立市は、日立製作所発祥の町、上野から特急で1時間30~40分ほどの距離、茨城県北部の海沿いにある都市である。

 なぜ、日立まで桜を見に行くのか。理由は3つあった。
 1つ目の理由は、ここ10年以上、毎年、日立市役所の職員研修をさせていただいて、皆さんへの御恩がえしの気持ちがあった。歴代の研修ご担当者、私の研修を受講された何人もの方々が、さくらまつりに是非来てくださいとお誘いくださったからだ。
 2つ目は、そのものずばりだ。駅から続く大通り(平和通り)の両側には、1キロほど桜並木が続く。日本の「さくら名所100選」にも指定されている。私が仕事で伺う時期には咲いていないわけだが、これが咲いたらさぞかしきれいだろうと思っていた。
 3つ目に、さくらまつりの期間中の土曜、日曜に、日立風流物という山車が出る。これが圧巻だという話であった。パンフレットなどにも載っていて、これを見たい気持ちがあったからだ。

 朝、特急で上野を出て日立へ。まずは、駅からタクシーで、かみね公園へ行った。ここは日立市の中心部を見下ろす高台である。地球がまるく見える太平洋の雄大な水平線をバックに、市内を一望できるのが素晴らしい。遊園地、動物園などがある市民の憩いの場所で、ここも桜の名所になっている。この一角に吉田正音楽記念館がある。国民栄誉賞を受けた作曲家、吉田正氏が日立の出身であり、その偉業を記念して市が建てた記念館だ。
吉田正氏といえば、私の世代より前の方々は特に懐かしいだろう。「異国の丘」「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」「誰よりも君を愛す」「傷だらけの人生」など、懐かしいヒット曲がいっぱいある。私も小学生の頃は歌謡曲に憧れ、橋幸夫さんや三田明さんが好きだった。
 記念館には、その年賦やレコードジャケット、音楽に関する資料があり、当時の映像も流れる、昭和の歌謡曲ファンにはたまらない展示だ。ちなみに日立駅の列車の発車の合図の音楽は「いつでも夢を‐星よりひそかに、雨より優しく、あの子はいつも歌ってる‥‥‥」である。

 最上階のレストランでコーヒーを飲みながら景色を楽しみ、そこから20分ほど歩いて市内へ戻る。さくらまつりのメーンストリートへ。
 確かにこの桜並木はきれいだ。当日(4月5日)は天気もよく、気分よく散歩ができた。この祭りは、いわゆるフェスティバルであり、神社仏閣の祭礼とは違う。屋台の出店、市民活動のスペース、周辺飲食店の提供する出店はもちろん、企業のスペースでは新車の展示試乗、企業の運動部が子どもたちに野球や卓球教室をしているコーナーもあり、オープンでにぎやかだ。市民が思い思いに楽しんでいる。街全体の雰囲気が明るい。今や全国区になったよさこい踊りのステージも用意されて、子どもや若者の市民グループが演舞を披露していた。
 人が多いので、警察官はもちろん多数配置についているが、市の職員やボランティアスタッフが各所で市民のお世話をしていたことが、皆でまつりを作り上げていることを実感させる。

 13時から、目当ての一つ「ひたち風流物」である。通りの中心に引き出された巨大な山車は、お囃子に合わせて上部が左右に開き、源平盛衰記をモチーフにしたカラクリ人形が動く。もともとは江戸時代に村の人たちが、この地を訪れた水戸光圀公をもてなすために始めたのが発祥だそうだ。人形浄瑠璃のような緻密な動きや、高山祭のからくり人形のような精緻な匠の技を感じさせるものではないが、人の手で動かしているのが見え見えの手づくり感、素朴感がある25分ほどの披露だ。
 この山車は、ユネスコの無形文化遺産に認定されている。日本ではこの認定は祇園祭の山車とこの風流物の2つだというからすごい。一度、見る価値がある。毎年、さくらまつりの時期だけ公開されるらしい。

 その後、祭り会場の屋台でいろいろ売られているつまみを食べながら、ビールを片手にそぞろ歩き、時間を過ごそうと考えていた。が、うちの妻は体が弱い。ここまで歩くと、さすがに体調不良、疲れたとのこと。とあるお店に入り、座って昼食。まわりの人はビールやお酒を召し上がっていたが、ここは我慢。祭りの雰囲気を感じながら駅まで歩き、駅にある物産館でお土産を買い、日立滞在は5約時間半、12000歩のゆうゆう散歩であった。

 最後に、なぜ日立市が“桜”なのか。理由がある。
 日立製作所の前身が、明治38年に創業された日立鉱山である。銅を産出した同社はその精錬の過程で亜硫酸ガスを排出した。樹木が枯れてしまい、町の緑が失われたのだという。そこで同社は、高さ155.7メートルの世界最高の煙突を建て、排ガスの市中への影響を抑えたのだという。
 ちなみに、その高さまで鉄筋コンクリート構造で煙突を作るのは、建築の常識からいうと想像を絶することである。現代であれば、地上で煙突のユニットを作って、クレーンで持ち上げて組み立てることになるだろうが、当時はそんな技術もないし生コンを圧送する技術もない。地上から足場を組んで、その高さまで人が登り、型枠を組み、コンクリートを背負って運んで流しこむ作業だったそうだ。ある意味で平成の時代の東京スカイツリーの建設よりはるかに苦労の多い、難しい、素朴で、大変な、命懸けの作業だっただろう。この煙突は日立市の発展のまさにシンボルであったが、平成の時代に入り、台風で下から約3分の一のところで折れてしまったという。今では使われていない。しかし、今でも市内から山の上に見える。私は、これこそ日本の文化遺産だと思う。

 話を戻す。同社では、枯れてしまった樹木の修復のために、経営陣が市内に植林を決断する。その一部に、300万本もの桜の苗木が含まれていたのだそうだ。それが数十年を経て、桜は市内各地に順次増やされ、市民のボランティア活動での植林も追加され、市内随所にさくらの名所をいただく街として今に至っているのだという。
「日立市は、桜並木でガッチリ!」である。

タップで拡大

代表

関根健夫( 昭和30年生 )