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2014 年 10 月 23 日

定年退職 - 年周りを思う

 定年。一般的には60歳を指す言葉だ。
 60歳といえば相当な年齢だから、ご苦労様でした、と人生の先輩を送り出す。送り出されるほうも、悠々自適の生活が待っていて、孫と遊んで何とも幸せなことか‥‥‥。
かつて、私はそのようなイメージをもっていた。

 社会に出ると、そのイメージは多少変わってきた。
 大手銀行や大手商社などでは、40歳を越えるころから、早ければ30歳台で他企業への出向、転籍があるという。定年退職というわけではないが、もとの会社に戻れる保証はないし、多くの場合は戻れないのだという。就職戦線を勝ち抜いて希望の企業に入っても、就職先の企業人としては、就業人生全体の半分ほどしか在籍できないことに哀れを感じる。これもその会社での、事実上の定年だろう。
 電力会社でも、55歳あたりから、転籍、出向などがあるようだ。民間企業でも公務員でも、50歳代にもなれば、あと○年先にどういったポストが用意されているのかは、各自概ねの想像がつくという。先が見えるというのは、寂しいことだろうと思う。もちろん、予想は裏切られることもあるし、そのほうが良いとは思うけれど。

 今は、本人が希望すれば、法的には65歳まで働ける。実際には、再任用ということだが、どのようであっても、働く場があることは幸せなことだと思う。しかし、定年と同時にこれまでとはずいぶん違う職場生活や環境が待っているということだろう。まずは、給与が各段に下がることが多いのだという。かつての部下が、上司になることも少なくないらしい。
 いずれにしても、定年とは生活環境を劇的に変える。
 私のつたない人生でも、いろいろなパターンを見聞きしてきた。ある方は定年退職後1年もしないうちに亡くなった。その話を聞いた時には「え、あの人が!」とショックであった。定年退職そのものが、亡くなった原因かどうかは分からないが、環境の変化が何らかの影響を与えているのかもしれない。

 A県職員のKさんは、昨年定年退職された。私より3歳ほど歳上の女性である。感謝してもしきれないほど恩のある方だ。
 私が今の会社で独立する数年前に、この県の職員研修で「プレゼンテーション」を担当した。私は30歳代後半であり、まだ駆け出しの講師。Kさんは、私の研修の受講者だった。研修を大いに気に入ってくれて、研修の主催部署へ研修内容と講師を絶賛する文書を寄せてくれた。
 さらに、職場の同僚と数人で東京へ旅行に来られた時には、わざわざ誘っていただいて、赤坂で食事会を催してくれた。こちらが仕事で同県へ伺った折には、直接の利害関係のない職員を何人も紹介してくれて、交流の場を設定してくれた。心温まる人であり思い出である。私の人生を支えてくれた方、といっても過言ではない。

 ある電力会社のOB方で、60歳を過ぎてから地元で起業したM氏は、地元のお年寄りの方々のために、気兼ねなく、またどんなに小さなことでも気軽に依頼できる、住宅リフォームの会社を立ち上げられた。従業員には農家の子息を採用し、地元にいても農業と両立できる収入を確保した。この方と私は20年来のお付き合いがあるが、現役時代からも大いに薫陶を受けた。以前から素晴らしい人格を備えた方だと思っていたが、定年退職後も挑戦を続けることに、大きな憧憬と尊敬を感じた。
 また、別の電力会社の方で、20年以上親しくしていただいているK氏も、今年の夏に関係団体に出向された。別の電力会社で親しくしていただいているS氏も、昨年の事故をきっかけに、来春には退職して第二の人生として飲食店を始めるのだという。
 大学の同期の仲間も、入学前に浪人をされた人は、学年は一緒でも年齢が上であるので「定年した」「会社を変わった」という話が舞い込む。

 年周りとでもいうのか、この私の周囲に定年者が増えた。これまでの私を支えてくれた方々が定年を迎えられたり、出向されたり、退職されたりしている。仕方がないことではあるが、あの会社、あの部署にいた○○さんが今はいないということは寂しいことだ。

 私は昭和30年の生まれであるから、今年で59歳。一般的な例でいうと、来年の誕生月か、年度終わりで定年退職となるわけだ。今、私は自分で立ち上げた会社を運営しているので定年で退職するという制度はない。部署が変わることもない。また、当分、今の仕事をやめるつもりはない。
 しかし、いつか能力は衰える。私自身の存在にも、私自身が気づかぬ老害はあることだろう。リタイアすべき時は来る。
 制度としての定年はない以上、仕事の仕方や身の処仕方については、自分で考えるしかない。友人知人の動向から孤独を感じる年周りである。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )