TOP 1つ戻る

ブログ

2015 年 8 月 31 日

レスバッドな選択 - 冷静な議論を期待する

 放射性物質に汚染された廃棄物の処分施設の建設地選定が、地元の反対にあってもめている。そんな施設はいらない、この町に来ないでほしい、という気持ちは分かる。しかし、どこかには必要だ。
 テレビのニュースで、その町の町長が反対を絶叫する映像が流された。愚かしい姿であった。反対するなとは言わないが、町の長であるなら、冷静に意見を述べ、話し合う姿勢を示してほしいものである。だいいち、それほど危険な施設なのか。冷静に考える場を持ってほしいものだ。
 世の中には、良い話ばかりではない。100%自分の思うようになる人生などないのであって、100%の安心、安全などありえるはずもないのである。日本がこれだけ豊かな生活を送ることができる裏には、誰かがそれだけの負担をしてきたということだ。しかし、豊かな生活をしているがゆえに、自分が何らかの負担をするとき、それが特別なものに思えるのだろうか。

 世の中の事象は、ベストやベターの概念でその全てを説明できるわけではない。私たちは、よりよいことを目指すことも大切だが、比較的欠点が少ない活動をすべきことも大切なのである。つまり、レスバッド(less bad)な選択である。いやすべては、レスバッドでしか説明できないのではないか。これが現実的な議論だろう。
 人が社会的な活動をすれば、必ず燃料を消費する。CO2が出る。時間を要する。お金を消費する。そこで、できるだけ少ない燃料消費で、できるだけ少ないCO2排出で、できるだけ短時間で、できるだけお金がかからない、その方法を考え、採用することが大切なわけだ。

 例えば、ハイブリッド車は地球環境に優しいわけではない。ガソリン車より比較的欠点が少ないだけのことである。
 私のかつての本職、建築でもそうだ。デザイン、構造、設備などすべてに優れた建築物は、一般的に莫大に費用がかさむのである。ではどうするか。ある機能を満たすことを条件として、比較的費用がかからない、比較的施工が難しくない、比較的欠点の少ない方法を選ぶのが正しいのである。それは単に、安い、簡単といった概念とは違うのだ。
 安心、安全は絶対的に大切である。この感覚は誰にもある。安心、安全が第一という命題は正しいが、その結果だけを絶対化して求めることは、現実に成り立たない。

 結果だけを求める傾向は、過程を学ばない人を増やす。過程を学ばない人が増えてくると、社会に不安定要素が増大する。
 社会のあらゆる事象は、現実にどのリスクがどれほどあり、それがもたらすメリットと比較してどちらを取るべきか、個人の生活から身の回りのこと、社会全体にまで冷静に考えるべきである。

 個人の生活でも同じだ。いいことばかりに目が行くと、つい負担が増える。比較的欠点の少ない物を選び、納得した負担をしたいものだ。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )