2015 年 9 月 9 日
勧める - おせっかいと言われても
人に何かを勧める。そういったコミュニケーションは誰にでもあることだろう。自分が良いと思う、気に入った物事を、人に勧めることは親切なことである。極めて自然なことだと思う。
組織的にも行われる。献血、募金、ボランティア活動、サークルへの参加、お店の紹介など、小学校時代から今日まで「‥‥‥をしたほうがいい」「‥‥‥をしてほしい」「‥‥‥を一緒にやらないか」などと言ってくれた人は何人もいるし、自分もまた言ってきた。
私は、自分でいいと思うことは他人に勧めるし、誘いもする。積極的に反応してくれない人もいて、それはそれで寂しい思いをするが、それでも言わずにはいられない。妻も私のことをそう言うが、おせっかいである。
反面、人に何かを勧められて困ったこと、複雑な思いをしたこともないわけではない。相手は好意で勧めてくれるのだが、こちらはその気にならないのでお断りするしかない。断ることは、する方もされるほうもあまり気分のいいものではない。例えば、選挙で投票の依頼や宗教への入信の勧誘などもそうだ。勧誘する行為そのものを否定するわけではないが、断ることにどうもバツが悪い。
子どものころから学生時代にかけて、いくつかの宗教に何回となく入信に誘われた。結局、明確に断ることもなく、かといって入信することもなく今日まで来た。誰もがよりよく生きたいと思っているからこそ勧めてくれるわけで、それは分かっている。断る理由もないが、なんとなくその気にならなかっただけのことだ。その方々の集会に参加したこともあるが、なんとなく違和感をもっただけのことだった。特段そのことを議論することもせずに来た。応じていれば、もっと違った人生だったかもしれない。
私は、代々のお墓があるので、日蓮宗池上本門寺の山内の寺院の檀家に名前を連ねている。しかし、敬虔な仏教徒ではないし、各種行事にも参加はしていない。年末年始、彼岸、命日にお寺に行って、お墓参りをするのみである。
人に何かを勧める機会の少ない人もいるように思う。人は人だと言わんばかりに、人に対して働きかけが少ない人は、人に喜んでもらいたいという気持ちがないのだろうか。人間への基本的な興味が薄いのではないか、とさえ思う。人に物事を勧めることがあまりない、他人への働きかけを躊躇する、そういう習慣がついていけば、人とのかかわりをおろそかにすることになる。一般論として存在感の薄い人になると思う。
そういう人に聞くと、時には、他人から疎ましがられることもあるかもしれないし、みじめな思いもしたくはないし、人におせっかいだと迷惑がられるかもしれないから、しなくていいことはやめておこうという趣旨のことを言う。心のどこかに、相手に迷惑をかける、社会や人間関係から浮くことになるかもしれないという不安を口にする。
迷惑をかけたら謝ればいい。相手も人間だ。心を開いて話しあい。言い方を考え、時に学ぶ姿勢をもって臨めば、きっと何とかなるだろう。何とかなると思うことができないことが不幸ではないか。
私の友人の中には「今度、一緒に飲もう」と、電話で話すと毎回言うが、具体的な誘いは一度もないままに20年も過ぎている人もいる。そのことだけで人の価値が決定づけられることではないことはもちろんだ。
が、その男とも継続して付き合っているのが私である。さしたる用はなくても、こちらから時々は連絡を取るようにして、誘っているからだ。おせっかいかもしれないが、人間関係にはこまめな努力も大切なことかと思う。個人的な交遊関係は、そういったおせっかいな努力があって保たれるのだろう。
自画自賛。残りの人生、これからもおせっかいで行くつもりだ。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )