2015 年 10 月 15 日
東京ヤクルトスワローズ優勝 - なぜヤクルトファンになったのか
東京ヤクルトスワローズが、14年ぶりにリーグ優勝した。真中監督が涙した野球中継を見て、私も泣いた。本当に良かった。嬉しかった。
スワローズのファンになったのは、小学校6年生だったか中学1年生の時だったかと思う。それまではご多分にもれず、巨人、大鵬、卵焼きの時代の子どもであった。年に1~2回、父に後楽園、神宮球場に連れて行ってもらった。
そのころ、父親はなぜか広島カープや阪神タイガースを応援していた。時代は巨人のV9に湧き、王、長島の全盛期だ。阪神は、巨人と並ぶ名門チームのイメージであったが、毎年巨人が優勝するので“ダメトラ”などと揶揄されていた。
子ども心に、なぜ父は東京のチームを応援しないのかと思った。ある日、そのことを聞くと、父は言った。一言だった。「弱いから」。
そうか、弱い者を応援するのが大人なのだ。それが人の道なのだ。パパっ子であった私は、人生を学んだ気がした。では「一番弱いチームはどこ?」と父に聞くと、当時セントラルリーグ6球団で優勝したことのないチームが、唯一サンケイアトムズだという。今のヤクルトスワローズである。
スワローズは、国鉄スワローズ、サンケイスワローズ、サンケイアトムズ、ヤクルトアトムズ、ヤクルトスワローズと経営母体が3回、名前が2回変わっている。今は、東京ヤクルトスワローズと「東京」が付くようになった。東京生まれの私には、ますます嬉しいことだ。
当時のサンケイアトムズは、球団キャラクターが鉄腕アトムで、ユニフォームのそでにアトムのマークが縫い付けられていた。また、当時の神宮球場は、他の球場に比べて広く、ビルの谷間の後楽園球場に比べても解放感があり、外野席は芝生だったことも好感が持てた。試合前には、外野のロバーツ選手が芝生席の子どもたちとキャッチボールをするなど、子どもの私には良いチームに思えた。
それから中学、高校、大学と、優勝しないチームを応援する茨の道が続く。でも、弱いからこそ応援の甲斐があると決め込み、巨人ファンの友人とよく張りあったものである。
初優勝は、昭和54年、広岡監督の時である。ピッチャーの松岡選手、キャッチャーの大矢選手、何といっても3番バッターの若松選手、4番、5番を打つ杉浦選手が好きだった。若松選手は小柄ながら毎年3割を打つ、小さな大打者といわれ、地味で実直な人柄から、今でも歴代野球選手の中で、私は一番好きな人である。
その後、野村監督の時代に、ID野球といわれリーグ優勝、日本一を何度も経験する。これまでの球団の歴史で全盛期といえるだろう。この時からは、野村さんの教え子といわれるキャッチャー古田選手が特に好きになった。
若松さんが監督になって、2001年にも一回優勝する。この時のオーダーが、1番、真中選手、2番、宮本選手、3番、稲葉選手、4番、ペタジーニ選手、5番が古田選手であった。真中選手は今の監督、宮本選手はオリンピックの日本チームの主将になった。稲葉選手は残念ながら日本ハムに移籍した。古田選手はヤクルトの監督から、今は評論家として活躍している。
ちなみに、日本ハムの栗山監督も元ヤクルトスワローズ一筋の選手であった。この人も実直な人柄で、北海道では、あえて札幌ではなく名前が同じ栗山町に住まいを持ち、地元の人たちと野球をしたり、雪かきなどをしたりして普通の人の印象で暮らしていると聞いた。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )