2015 年 12 月 25 日
還暦 - 実感のない年周り
私は、今年10月17日で還暦を迎えた。
還暦ということで、皆さんから「おめでとうございます」と言われた。何人かの方からはプレゼントが届いた。「赤いちゃんちゃんこというわけにはいかないので、赤い果物を送ります」とリンゴ。「モーターボートを操縦するときに着てください」と赤い防寒タイプのネーム入りウィンドブレーカー。「あなたと同じ創刊60年です」と広辞苑。そうか、広辞苑は昭和30年の創刊だったのか。いやはや、皆さんの思いはありがたい。
しかし、どうも還暦という言葉にはしっくりこない。ましてや「おめでとうございます」などと言われると複雑だ。抵抗すら覚える。俺はそんな歳じゃないよ、と。
還暦といえば、私の中では“お爺さん”というイメージである。赤いちゃんちゃんこを着て、和室の中心に座って、家族、孫などに囲まれて祝ってもらう、そんな光景が想像される。今、私はその年になったわけだが、娘は独身、孫はいない。家内も“お婆さん”の風体ではなく今も若々しい。私の気持ちの中では、今もなお魅力的な女性である。まだ君に恋している感覚だ。私の職業には定年がないので、仕事も今までと同じ環境にある。まだまだ、ヤンチャでいたいと思う。今年もスノーボードをする計画を立てた。パラグライダーもやってみたい。
先般、社員が還暦パーティを開いてくれた。何事もなく企画されたのであれば断っていただろう。しかし、この企画は20年前に独立した時に、所属してくれたN講師が「関根さんの60歳まで付いていくからね、還暦パーティをやってあげるからね」と冗談っぽく言ってくれたことから発したものであった。「おう、頼むぞ」軽いノリでそう言った。その会話の傍にいたS講師が「私も幹事をやります」などと言ってくれた。
その時、私は40歳。独立したものの、果たして事業はうまく行くか、それは不安の船出であった。20年先はずっと先の話であり、永遠に来ないだろうというほどのイメージだった。その後も時に触れ「俺の還暦パーティ、やってくれるのだよね」などと言って、そのことで自分を奮い立たせていたものだった。
そのN講師が、若くしてガンで亡くなった。中学生、高校生の娘さんを残して。私は、葬儀の主賓を務めたが、これは悲しかった。切なかった。
N講師のこともあって、還暦パーティは受けないわけにいかない、いや受けたい気持ちだった。実行委員長は遺志を継いだS講師である。皆さんの好意に甘えた。家内も、節目だからということで同席してくれた。それはそれで楽しかったし、感激もした。
私は、いい人に囲まれて本当に幸せである。ありがたいことだ。
還暦、60歳など、私には実感はないが、航空券には年齢が書いてあるし、様々な書類に記入するとき、そうかと思う。
それは一つの節目とあきらめて、記念にということで食器を購入した。少し大きめのパスタ用の皿である。使い勝手はよくないが、それなりにおシャレで、スパゲティやシチューを入れると豪華に見える。家庭料理がレストラン並みになる。パーティに参加していただいた皆さんにも同じものを贈った。多少大きめなので、取り分け用にも使えるはずだ。
今年は結婚30年でもある。節目ではあるが、生きる上ではゴールでも何でもない。自分は今、初めての人生を生きている。人生ここからは七掛けで、42歳だと思うことにした。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )