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ブログ

2016 年 1 月 6 日

けじめ - 新年の変わり目に思う

 新年の変わり目に思ったことは、いや何年も前からだが、一年が経つのが速いと感じ、年末年始がそれらしくないことだ。もっとも、同年代の人の何人かも同じことを言う。年の瀬の感じがしないとも言うし、正月が正月らしくないとも。
 その感覚は年齢のせいかと思っていた。一年を過ごし正月を迎える、そのサイクルを何度も経験している。私は正月を理屈の上では60回経験しているので、感動が薄れるのかもしれない。それもあるだろう。
 しかし、どうもそうとばかりも思えない気がする。

 最近の世相には、要するにけじめを感じさせることがなくなってきたのではないか。年末から新年にかけて、仕事の休みはおおむね1週間である。その1週間には、仕事納めがあり仕事始めがある。銀行も休みだ。その1週間にけじめがあればこそ、新鮮な気持ちで次に進むことができるというものではないだろうか。
 かつて、多くの商店は少なくとも元日から3日間休みであった。3日も休むから、各家庭では数日間の献立の計画を立て、食材を買いこんだものだ。その間に、普段は会わない親戚や友人知と会うこともできるし、年始回りと称してお互いの家を訪問したものだ。普段の生活ではできないことをする、アクセント的な意味合いが年末年始にはあったのだと思う。

 けじめとは、違いであり、差であり、区切りである。区切りがあることで、人は新鮮な気持ちにもなれるし、来るべき次の局面に対して違った意味での意欲もわくのだと思う。けじめがあれば、その後のことについてイメージをもつだろう、生活についての夢や希望も持つだろうし、計画もするだろう。どこかに自分の思い通りにならないことがある。その期間があるからこそ、それがけじめになっている。

 そういう意味で、もう何年も前から社会にけじめが薄れた。スーパーマーケットなどは、1月1日から営業しているところが珍しくない。我が家の周囲でも、コンビニエンスストアはもちろん、イトーヨーカドー、オリンピック、川崎ラゾーナ、島忠ホームセンター、ビックカメラ、コジマ、ヤマダ、西武デパートなどは元日からの営業である。我が娘が勤務するスーパーマーケット・ライフも2日から営業する。サミットストア、銀座のデパートもほぼ2日からの営業、年末年始のインターバルは1日しかない。
 各家の前の松飾りや自動車のフロントに付ける正月飾りも、今年はあまり見なかった気がする。
 年末の紅白歌合戦は、少なくとも国民的とはいえない歌手が多く登場し(私が不知なだけかもしれないが)、番組構成もバラエティ風で落ち着かない。せっかくの司会者、黒柳徹子さんのトークもほとんど聞けず、その意味での私の期待は大いに空振りだった。つまり、あえて年末に見る意味のない、いつもと何ら変りのない番組だったということだ。これも年末年始の感覚が薄かった一因か。対する民法は、レギュラーのバラエティの延長。その他、紅白の裏に格闘技が3局もあり、中には既に引退してしまった選手を起用しての見世物。うんざりする内容だった。これはいつも以下。

 今年は、母の認知症、老人ホームへの入所があり、母を元日に自宅に連れて来たものの、会話は噛み合わず、料理についても興味を示さず、脈絡のないことを叫ぶ姿を見るのは、身内として複雑な思いであった。
 そういえば、自分も初詣でにもう何年も行っていない。神様、仏様、お天道様、ごめんなさい。

 さて、今年も5日から仕事である。研修の講師は6日から連日だ。またすぐに日常を迎えるわけだ。正月が正月らしくないと、嘆くだけでは何の成長もない。どのような環境下にあっても、自分のけじめは自分で作る、そんな能力が問われているのが昨今の環境というべきか。そんな新年、いや人生にしたいものだ。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )