2016 年 3 月 12 日
地震の時仙台にいました その8 ― あれから5年
3月11日、あれから5年が過ぎた。
あの日、2011年3月11日(金)14時46分、私は仙台市内で講演をしていた。そのことは、このブログの当該ページをご覧いただきたい。
あの翌日、私を車に乗せて鶴岡市まで連れて行ってくれたAさん、ご親せきのKさんには本当に感謝している。あの方に会うことができて、私の人生は少し、でも確かに変わった。
直接の関連はないのだが、2年前から山形県職員の研修、加えて昨年から山形県市町村職員の研修、今月は天童市職員の研修をさせていただくことになった。これまであまりご縁のなかった山形県に講演、研修に呼んでいただくことになった。嬉しいことである。
3月11日は朝からテレビのニュース、ワイドショーはその話題で持ちきりだった。その内容は、5年目になって復興が遅いとか早いとかの話は減ったように思われた。各自治体とも方向性が見えてきたということだろうか。
報道各社ともある個人を取り上げ、その方のその後の生活や今の思いを扱ったものが多かったように思う。当時、親を失った子どもたちは中学生であればすでに高校生、大学生になっている。自分の人生を自分自身で歩いている年齢だ。事業を営んでいた人も、この5年間ですでに事業を再開、または廃止しそれなりの実績を積んでいるということだろう。
私は復興という言葉には違和を感じる。マイナスからのスタートだから元に戻るのは大変なことだ。町レベル、自治体レベルで他人の営みが連綿とあった地域が、そんなに簡単に元に戻るはずもないのだ。災害によって人々が新しい人生にせざるを得なくなったということだから、元に戻ろうというのではなく新しい時代が始まったことを前向きにとらえるしかあるまい。復興ではなく新興だ。
多くの被災地で土地のかさ上げ工事が続いているという。ある地区ではかさ上げ工事が概ね終わり、区画整理をして2年後に市民に分譲するという。テレビの解説によると、これでもこの地区は早い方なのだそうだ。しかし、現時点でアンケートを取ると住民の半数以上はその町に戻る意思はないのだという。気持ちのある人はすでに自分の力で別の高台に移転し、自宅を新築しているという。別の土地へ移転する決断、他の自治体への転居、それはそうだ、そのほうがよいと思う。あの狭い仮設住宅ですでに5年間も暮らし、最低でもあと2年だという。それなりの年齢の人は待てないだろうし待つ価値もない。仮設住宅はいつかは出なければならないのだろうから。
町に戻る人々も大切だが、移転する住民をこそもっと支援したほうがいい。テレビでは、九州に移住した家族も取り上げていたが、私はそういった人々ほど大いに応援したい気がする。もし私がと考えたら、家族を連れて他の地域で生計を立てる道を探すだろうことを家内と話した。家内はついて行くとは言わなかったが。
早くて2年後にできる町はどうなるのか。大型スーパーマーケットを街区の中心に誘致しそれを核として復興するというが、それが叶ったとしてもスーパーの経営が成り立たなければ、その施設そのものが自治体のお荷物にはならないか。全国的にそういう物件はいくらでもある。人口が減ることが確実な情勢で、以前の自治体の規模を維持しようとするほうに無理があるのだから元の街にはならないだろう。
以前にも書いたが、かさ上げの土地の地盤は一般的に弱い。地盤が弱いと、また地震が来たときに建て物への影響も大きくなる。ダメージは他より大きいだろう。かさ上げは6メートルから10メートルレベルのところが多いようで、先の地震の津波が例えば13メートルとすればまた町は水浸し。どこかへ逃げる必要がある。
新しい街をどのように造るかは自治体の自由な意思だが、元の街には元の街を造るのではなく、発想を変えて街づくりをすべきではないか。報道によると、女川町は原子力発電所と良い関係を築きながら、若者を中心に従来とは違った街づくりを進めているという。是非一度行ってみたいものだ。
津波の可能性のある地域には、都市型の高層住宅を作るべきだ。このことも以前に書いた。普段は下層階に事業所などを集約して市民が利用できるようにし、いざとなったら皆が4階以上に上がればそれで助かる。特に高齢者、一戸建中心の住宅地から高台へ避難させるより各段に効率がいい。高層住宅を建てれば土地が余る。それで何か別の活用方法を考える。シンガポールのように、だ。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )