2017 年 1 月 17 日
「忙しい」に思う - 年頭にあたって考えたこと
年末年始、昨年から今年は、特によく動いた。12月26日に福岡で研修会を行い、27日は九州電力の各部署を訪問。28日は仕事納めで、業務整理と社員慰労のために会食。29日に自宅の大掃除をして30日から新年1日まで軽井沢。現地でものんびりしていたわけではない。家族サービスでアウトレットモールへのお供だ。
元日の朝は軽井沢の諏訪神社で初詣。社殿に至るまでに30分ほど並び、その後またアウトレットで買い物。その後、小牧の家内の実家へ。2日、3日は家内の実家で掃除をして、東名高速道路の渋滞を避けるため、3日の深夜(4日の午前1時)に帰宅したというわけだ。合間をぬって、年賀状の整理や原稿を書くなどするから、まず空いた時間はない。
そんな私のことを、人は「忙しい」という。正確に数えたわけではないが、日常、去年一年間で私が他人から最も多くかけられた言葉の一つだろう。「お忙しいのですね」「お忙しい中を……」など、きりがない。
しかし、私は自分のことを忙しいと思わないことにしている。自分で自分のことを「何かと忙しいのですよ」「何かとバタバタしておりまして……」などと言う人がいるが、このようなタイプには秀でた人がいないように思うからだ。人生の先輩でも本当に忙しい人は、自分のことを忙しいとは言わない。
「忙しい」について思うこと。
新入社員の時だ。本社の事業部に配属されて、部署に挨拶に行った。こちらが挨拶と自己紹介をすると、当時のT課長は、いきなり「忙しいから、お前に教えている時間はない。自分で覚えろ。」とおっしゃった。私は緊張したことを覚えている。今となっては良い思い出だ。
小学校の恩師、荒井亮三先生が昨年4月に亡くなられた。小学校を卒業してから48年もお付き合いしていただいたわけだ。師はいつかのクラス会でこう言われた。「ものを頼むときには、忙しい人に頼みなさい。」という趣旨のことを。忙しい人には頼みにくいものだが、それはその人が周囲から信頼されているから忙しいのである。その人は引き受けた以上、きちんと責任を果たしてくれる。多くの人が満足するから、仕事が寄せられているのだ。暇な人にものを頼んでも、それなりの結果に終わることが多いものだ、と。
ある意味で、私の社会人としての指針になっている。暇にせず、目の前の仕事にしっかり取り組むことで周囲の人に喜んでいただくことが大切だ。
そこにすべきことがあるから、仕事を依頼していただいた人のことを考え、しっかりと、真面目に、正面から取り組めばいい。忙しいなどとは言わずに、淡々とこなせばいいのである。私も俗人であるから、目立ってやろう、人から褒められようなどと思う面がないわけではないが、すべきことに興味をもって、楽しくできれば、それに越したことはない。
忙しいことを特殊とみる人や、それがマイナスに思う人は、人には暇な時間があることが当たり前だと思っているのではないか。何かをしている時間も暇な時間も、人生のかけがえのない時間だ。決して戻って来ない。時間そのものに価値はない。人がどれだけ価値をつけることができるかだ。
暇だから寝るのではない。寝ることが今の自分にとって価値がある、と考えるから寝るのだ。暇だから映画を見るのではない。その映画を見ることに価値があれば、時間を作ってでも見るべきだということ、それだけのことだ。したがって、忙しいとか暇だとか、そういうことを問題にすることが、愚かなことだと思う。
最後に。
そんな気持ちになったのは、私の人生の師の一人である町田宏先生だ。町田氏のことは以前のブログにも、我が人生で出会った二人の人格者のお一人として書かせていただいた。
ある日、先生は「忙しいと思わないほうがいい。忙しいという言葉は心を亡ぼすと書くのだよ。」と、しみじみとおっしゃった。それがきっかけだ。
私は、嬉しく、わくわくして、今年も新年を迎えることができた。今年も全国で研修や講演ができるだろうか、知らない街を歩く機会に恵まれるだろうか。きっとたくさんの素敵な人に出会えるだろう。大いに楽しみである。
私の心は滅んではいない。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )