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2017 年 7 月 5 日

留萌に行って来ました - 若松勉氏の故郷

 札幌での仕事があったので、翌日に休みを取り留萌に行った。
 留萌に行くというと、概ねの人は「ああ、そうですか」といった反応である。特に北海道以外に住んでいる人にとっては、留萌という町のイメージがないのである。北海道に住んでいる人は「え、何であんな所へ行くのですか」つまり「さびれていて何もない所ですよ」といったといった反応であった。しかし、私にはその地にどうしても行きたい理由があった。ずっと昔から、行ってみたい町の一つだったのである。

 私が生涯で、最も好きなプロ野球の選手は若松勉氏である。彼は、電々北海道(今のNTT北海道)の社会人野球から23歳でプロに入った。彼は身長が168センチであり、プロ野球選手としては小柄なので高校卒業時からドラフトに声がかからず、その将来性には賛否があったらしい。が、結果として当時のヤクルトの三原監督の推薦でドラフトにかかって、当時のヤクルトアトムズに3位指名でプロ入りした。つまり、最初からスター選手ではなかったのだ。すでに結婚していた奥様に「ダメだったら、札幌に帰って焼き鳥屋でもしよう」と言って、上京したという話は有名である。入団会見にも奥様が同席したという、家庭的な人である。
 結果、若松勉選手は小さな大打者といわれ、42歳で引退するまでヤクルト一筋のスター選手であった。年間打率3割以上が12回は、歴代3位。生涯通算打率3割1分9厘は、現在でも日本人歴代第一位のはずだ。

 話を留萌市に戻す。その若松勉氏の出身地が留萌市なのである。もっとも高校は北海高校で、その後は電々北海道だから、留萌に住んでいたのは15歳くらいまでで、その後は札幌ということになるのだが出身地であることには間違いなく、彼は留萌市の名誉市民になっている。その留萌に一度行ってみたかったのだ。

 留萌市は北海道の中部、日本海に面した町で、北海道庁旧支庁、現振興局も置かれているので、その地方の中核都市である。その昔はニシン漁で栄え、その後炭鉱の町として栄え、50年ほど前からはタラコやカズノコの加工地として栄えた。人口は住人4万人に対して、季節労働者が3万人もいて、最盛期は7万人だったという。その後、炭鉱が閉山し、水産加工業も衰退し、現在の人口は2万2千人ほどだ。かろうじて、カズノコの加工では今なお、日本一だそうだ。

 鉄道は深川から留萌本線が走っている。旧国鉄からの本線が走っていることからも、この地が要所だったことが分かる。しかし、現在の留萌本線は1日9本、1~2両の各駅停車のみである。乗客は相当に少ないことだろう。札幌までは高速バスがJRより安い料金で頻発しているからだ。留萌の先のこの線の終着駅、増毛までは去年廃線になっている。

 町に出てみると、繁華街には飲食店が多い。人口2万の街のそこここに居酒屋、スナックなど飲食店がある。最近始めたのであろう瀟洒な店もあるが、多くは古さを感じる。また、その多くは営業していない様子で、一部の店舗は建物自体が廃墟として朽ち果てている。以前は相当に栄えたであろう繁華街を歩くと、何とも言えない雰囲気がある。(それも北海道らしくていいかと思う)

 市内の名所黄金岬に行ってみた、磯には小学生の遠足だろうか、子どもたちが貝などを採って遊んでいた。そこにも飲食店が立ち並んでいるのだが、営業していたのは1軒だけだった。近くに海のふるさと館という市営の立派な博物館がある。日本列島ができた経緯や留萌に人が住み始めた太古の昔から現代までの解説など、展示内容はいいと思うが、パネルや展示物が色あせていかにも古さを感じる、視聴覚機器はほとんどが故障中で大きな窓ガラスも汚れが目立った。お金をかけてのメンテナンスができていないようだ。

 港に行ってみた。ホテルでもらった紙には、港の朝市の場所が示されていた。行ってみると、いつからか全く使われていない冷凍倉庫や市場の建物があるだけだった。地元の人の話によると、年末近くにカズノコを下すためにロシアの船が来る程度で、漁船の入港はないのだそうだ。港自体は結構広く、大型船が何隻も入れる立派なものだが、私の行った時には船はゼロであった。

 この町の未来を語ることが本稿の趣旨ではないが、北海道の中核的な町の現状を見ることで、いつまでも豊かさが続かないことへの哀愁を感じたのだった。
 私が野球選手としての若松勉氏のファンだったころから、もう40年ほどになるのだ。時代は変わっている。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )