2017 年 9 月 21 日
男の顔は履歴書である - 女の顔にもそれを感じる昨今
「男の顔は履歴書である」と言ったのは、評論家の大屋壮一氏である。鎌倉の瑞泉寺にこの言葉の碑がある。今どきの人に言うと、差別だとか顔や外見で判断するのはおかしいとか言われそうだが、この言葉は言い得て妙である。この言葉には大学生の時に出会ったと思うが、60歳を過ぎてそのことの意味というか、大屋氏が言った本質的なことが分かってきた気がする。含蓄のある言葉だと思う。
もっとも、大屋壮一氏より前に「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」と言ったのが、アメリカのかつての大統領リンカーンであるという説もあり、これはアメリカ人のジョークであろうが、この真意、真偽を調べる気持ちはない。ここは笑って済ませよう。
この場合の顔は、いわゆるイケメンであるかどうか、表情が明るいかどうかではない。もっと本質的な人生を表している「顔」であろう。確かに、その人の顔を見ていると、いろいろと過去を想像できる。
この人は、若い時からきっと多くの苦労をされたのだろう、と思える人がいる。反対に、若い時から自分勝手な言動を繰り返してきたのだろう、などと思える人もいる。苦労など皆がしているのだから、そんなことは当然なのだが、それをどのように乗り越えてきたかを想像できるのが「顔」なのだ。
今の行動が自信に満ちている、そんな顔の人もいるが、それも過去がつくった顔だ。人間関係を考える時、大切なことは周囲の人とのバランスを考えることだ。人が何を発言しても、それは自由だ。しかし、今ここでそれを言うか、もう一歩他人の発言を待ってから言うか、それができる人かどうか、悲しいながらそのバランス感覚が顔に出る。他人の言動から厚顔無恥、唯我独尊、自己顕示欲の高さなどを感じるとき、振り返るといかにもそうだと思えるような顔つきをしていることが多い。
この項のテーマは「男の顔」なのだが、最近は「女の顔」もそう思えてきた。秘書を口汚い言葉で罵った女性国会議員は反省の記者会見を開いたが、私には言葉通りに受け取れなかった。そう思えないのは顔だった。言葉とは別の次元で顔に“自分”が出てしまっている。私にはそう見えた。いくらエリートでも人間としてダメだなと思った。顔を変えるには、人生の考え方を変えるしかない。最低でも10年はかかるだろう、と勝手な言い分を反芻した。
危ない男は危ない顔をしている、例えば媚びへつらう不断なイメージというか。危ない女は危ない顔をしている、例えば変に可憐なイメージというか。同性はそのことに気づきやすく、厳しい目で見るものだが、どうも異性には、特に男は女性に弱いように思う。
「男の顔は履歴書である」だから、人を顔で判断しろということではない。結果として、人の悲しさが見える気がするということだ。だから責任を持った人生を送るべきである、という将来への提言ととらえるとさらに深みが増す。
今、私は責任ある顔をしているだろうか。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )