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ブログ

2019 年 10 月 15 日

常識について考える - 非常識な私

 私は日頃の行い、人からの意見、仕事上のクレームについては、常識に基づいて判断すべきことと考えている極めて常識的な人間だ、と思っている。先日、ある市で講義をして「常識」という言葉を多用していたら、受講の方から言葉の語源について質問を受けた。
 漢字の熟語は中国から日本に入ってきたといわれるものと、外国語から訳されてつかわれ始めた比較的新しいものとがある。「常識」の語源について、にわかにはお答えすることができなかったが、中国の古語とも思えなかったので、福沢諭吉が訳したのではないか、とのコメントを返しておいた。「情報」や「人間関係」などもそうだからだ。ちなみに、最近よく聞く「洗脳」という言葉は、元々あった言葉ではなく革命以降に中国共産党が国策として使い出したという話もある。
 確たる調べはついていないのだが、福沢諭吉が「国会の前途」という著書の中で、コモンセンスを「常情」「常見」と訳したのが最初で、後に「常識」とされたようだ。

 常識は法や条例ではない。具体的な内容が常識として明文化されているわけではない。でも、多くの人がそれを知り、守っているからこそこの世は成り立っている。でも、そこには微妙に差がある。細部まで詰めれば常識は違うし、時代によっても変わるのだ。
 例えば、私は60歳を超えてもスノーボードをする。多くの人は「へえー」と一瞬驚いた顔をされるが、私は楽しいからするのであって、楽しいことに年齢は関係ないと思っている。これが私の常識だ。多くの人は私のことを外見から判断してか、私がゴルフをすると思っているようだ。サラリーマンぽくって、激しい運動は似合いそうにない。それがその人が私を見る際の常識的な判断だとすれば、それは仕方のないことだ。しかし、私はゴルフはしない。

 例えば、何かを買うときにレジが混んでいれば列に並んで待つ、私はそれは苦にならない。しかし先日、洋菓子を買い求めるために、店員に声をかけたら「そちらに並んでください」と言われ、並ぼうと思ってそちらに行ってみたら、その状況は列とも言えない人だかりであった。「並べと言うなら、どこへどのように並ぶのか、きちんと客に指示をしろ、無責任な発言をするな!」と言ってやりたかったが、店員もアルバイトだろうからそうは言わずに、でも腹を立てて、結局は買わずに帰ってきた。私はそれほど非常識ではないと自分で思っているが、その姿を見て妻は「短気なんだから」とあきれていた。洋菓子を買えなかったので不満だったのだろう。他の店で買って取りなした。

 人によって常識が違うのは、経験が違うからだろう。そうなると、この世に同じ経験をする人などいないのだから、常識は人によって違うのが当たり前なのだ。とはいえ、法は守るべきだとか、暴力はいけないとか、人には優しく接しよう、きちんと挨拶をしよう、人に呼ばれたら返事をしようといったことは、何をさておき常識だと、私は思う。教育や社会的経験から、多くの人が身につけることだ。
 でも、役所でも病院でも暴力を振るう人はいる。実際に名前を呼ばれても返事をしない人はいる。暴力はともかくも、返事をしない人、これは結構多い。その場に行けばすぐに分かる。私は何と非常識なことと思うが、その本人たちはそういう習慣がない、それでいいと思っているようだ。先ほどの洋菓子店の店員も、そのような言い方でこれまで問題は起きていないのだろう。それでいいと思っている。若者にそういう傾向、習慣があるとすれば、それは社会的、自然的に形成され人々に相互に作用されたのだろうか。つまり皆やっているからという概念、それもその人の常識に含まれるのだろう。私は認めたくないが。

 日常生活で、人の言動を見て腹を立て「そんなことは常識だろう」と言いたくなることは多々あるが、相手によっては「そのくらい許してやれよ」という常識もあるし、まったく気にならないという常識もあろう。常識とは、その常識を共有している人同士にとって通用する概念なのだ。だから、同じ常識を持ち合わせない人に常識を振りかざして「常識を守れ」などと言っても意味はない。人によって意見も違えば常識もずれる。
 そうなら意見や常識が違ってもそれはそれで良い。お互いの違いを認め、その違いを学び合えうことが大切なのだ。単に現象や方法論だけで「こうすべきだ」といった結論を押しつけるのではなく「こういう社会を作りたいので」という理想も含めて「私の常識はこうです」と、自分の意見や常識をはっきり言おう。
 企業や役所における、お客さまとの意見の違いの調整、クレーム対応などでは、どちらがより社会的、常識的に説得力があるか、最後はそれなのだから。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )