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ブログ

2021 年 6 月 30 日

「仕返し」と「見返し」- M氏から学んだこと

 人生には嫌なことがある。辛いことがある。社会が人と人との関わりによって成り立っている以上、その原因やきっかけには人が絡んでいることが多い。あの人のために、自分はこんなことになった。あの人があんなことをしなかったら、自分はこんなことになっていなかった。そのような状況は確かにあるし、仕返しをしてやろうと思う気になることも往々にしてある。
 そうであっても、日本は法治国家だ。江戸時代以前のように個人的に仕返しをしたり、仇を取ったりすることは認められていない。ではどうするか、裁判所に訴え出て法によって裁いてもらうのがルールである。だから、個人間で納得できないことは裁判で決着をつけるのだ。

 しかし、ある方が裁判に訴え出たところで、他方が自説を取り下げ「悪かった、反省する」となるとは限らない。もちろん場合によってはそういう抑止効果もあるだろうが、現実には訴えられた方も正当な権利としてより強力な反論を展開してくることは想像に難くない。裁判はその内容が私的なこと、つまり民事であっても公にさらされるわけで、お互いに引くに引けない状況に置かれる。つまり裁判は公開のケンカだ。

 仕返しは過去の話であって、未来への夢や希望を語られることはない。せいぜい名誉回復程度のことだ。いや、そもそも名誉すら傷つけられてはいない、多くは思惑のズレ程度のトラブル、所詮は悔しい思いでしかないことを法律に結びつけている、これが現実ではないか。裁判の過程ではお互いが自説を展開することになる。結果的にどちらが勝っても負けても、お互いがいやな話を聞くことになる。遺恨を残すことが多い。

 そこで私たちがすべきことは「仕返し」ではなく「見返し」だ。嫌なことがあったら、あの人を見返してやるという意気込みで自分を変える努力をする。自分が変わる、自分の価値をより高めることによってその人を見返すのだ。これは戻って来ない過去を論じるのではなく、自分のこれからの限りない未来を考えることになる。自分を高めることになるし、何よりも相手方を傷けることにならない。これを人格というのではないか。

 以上のことは、私の仕事をサポートしてくれている会計事務所のM氏から伺ったことである。なるほどと思った。人生、すべてが自分の思うようにはならない。余程のことであれば社会的に白黒付けることも必要かもしれないが、しょせんは自分の人生だ。人生は自分の幸せのために使えばいい。
 では、自分はどうであったろうか。60年以上も生きていれば、腹の立つこともあったし理不尽と思えることもされてきた。訴えてやりたいと思うことも一度や二度ではなかったけれど、かといって「法」そのものによって自分の幸せが実現できるわけでもない。幸せを実現できるのは自分の心である。矛盾のあるのが社会であると思えば、私の場合は“見返してやる”という意気込みもそれほど強くなかったように思う。変わった人だったなと思う人は何人もいたが恨む気はない。残念な人だなと思うことはあったけれど、恨んでも私の人生は幸せにならないから。だから私はこんな人間でしかないのだ。

 人生で大切なことは、自分が状況をどれだけ許容できるかだろう。でも、見返してやりたい人はいる。それは自分である。生きている以上、自分の過去を見返すつもりで頑張ることにしよう。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )