2021 年 7 月 25 日
命とオリンピック - どちらも大切です
オリンピックが始まった。私はスポーツ一般にそれほど興味や知見のある者ではないが、人生を賭け努力をしてきたアスリートが競いあう姿を見ると素直に感動する。
今回のオリンピックは、開催までにいろいろなことがあった。一番大きな要素は新型コロナウィルスの影響だろう。まずは1年の延期、これは史上初だという。
直前になっても、大勢の人が移動するので感染者が増える、外国から人が来ればさらに感染者が増えるといった心配から、やめるべきだという世論があった。オリンピックは悪だと言わんばかりに、マスコミはそういうニュースを繰り返した。
政府も腹立たしい限りである。「安全、安心な大会」と言い続けた。そもそも、安全は論理的に議論すべき概念である。何をもって安全かを示すことなくては意味がない。安心は一人ひとりの心理的な問題で、他人に押しつけられることではない。私は安心できないからやめるべき、という論調が成り立つ。だから「安全、安心な大会」は心に響かない。
一部の政党、政治家においては「命とオリンピック、どちらが大切か」などと、3週間前の東京都議会議員選挙で言い放っていた。失望を通り越して、怒り、こんな人が政治をやっているのかと虚無感すら持った。命とオリンピック、どちらも大切だ。
「どちらが」というのは、背反できる事象において一方を選択すべきときに使う質問である。オリンピックをすることで国民の大多数が命を失う、オリンピックをやめることで大多数の命が助かることが証明されているならこの質問は成り立つ。今回の場合、無観客も決まったし、多少のリスクがあるかもしれない程度のことで、どちらも選択できるのであるから質問そのものが成り立たない。そもそも命を比較対称、選択肢にすることは美しく見えて品性に欠ける。極限にでもなれば別だが、平時にはすべきではない比較だ。だったら人は一切動くな、すべてのイベントはしないに越したことはない、ということになり現実的に成り立たない。
かつて「命は地球よりも重し」といった政治家がいたが、命を比較の選択肢に入れると、それはそうだろうというポピュリズムの問題になる。東京都議会議員選挙では、オリンピック中止を公約し結果的に当選した人もいた。開催された以上、公約違反で辞職されてはいかがだろうか。
今回のオリンピック、当初は我が国が東日本大震災からの復興をアピールするとか、多様性を重んじる社会を実現するとか、それっぽいことも言ってはいたが、何となく政治的アピールっぽかったし、始まってしまえばそれすらあまり声高々に言われなくなった。
オリンピックの開催の意味は、スポーツから得られる感動を通して世界平和に貢献することだ。安心、安全ではなく、理想論でも良いからそれを言い続けることが政治信念というものだろう。少なくとも開催は国際的に約束したのだから。
命と世界平和、どちらが大切でしょうか。
私はどちらもだと思います。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )