2022 年 2 月 26 日
なぜか昔のことを思い出します ― 小山不二子先生のこと
最近、なぜか昔のことを思い出す。夢にも見る。
例えば、大田区立徳持小学校4年生の時である。その学校では当時3年から6年まで同じクラスメイトで進級することになっていた。4年4組、担任は当時25~26歳だったかと思う小山不二子先生だ。ぽちゃっとした体格(失礼)、まん丸笑顔の先生で、この先生が担任であることがクラスの皆が嬉しかった。
いたずらやケンカをしては叱られもした。私は体育が嫌いだったので先生の指導はずいぶん厳しかったようにも思う。でも、クラスでこの先生を嫌っていた人はいないだろうと思われる。男子と女子でケンカをした時には、学級会で「男と女どちらが偉いか」なんていう討論もさせてくれた。今流にいえばディベートである。
休日に有志を自宅に招待してくれたことがあった。今の時代では問題があるのかもしれないが。十数人でバスに乗って先生のアパートに行ったことがあった。皆で出し合って(結局は親が出したのだが)買ったおみやげを持ち、子どもだけでバスに乗って出かける。もうそれだけでワンダーランドである。ご自宅ではカレーライスをごちそうになり、ゲームをし、近所の神社の境内で缶蹴り遊びをした。今も鮮明に覚えている。楽しかった。
先生のご主人も小学校の教師で、そちらの生徒も別の日に招待されていたという。アパートに子どもが十数人も来て騒ぐものだから、このことがきっかけで大家さんからクレームがきて、先生は引っ越しを余儀なくされたという噂があったが真偽の程は定かではない。
その大好きな先生が1年の間に2回それなりの期間休まれた。1回は交通事故だった気がする。当時は教員不足だったのか代用の教員が手当できなかったのか、1回目は小林正光という校長先生が臨時担任になった。若い20代の女性の先生から威厳のある重鎮の先生が教壇に立つ、これには子ども心に緊張したものだが、和井内定之(十和田湖で鱒の養殖を成功させた人)のことを習った。諦めずに続けることの大切さを学んだ。良い思い出である。
もう1回の時は、4組の生徒が3分割され15~16名ずつ1~3組に編入された。元々40名近くいる教室に12~13名近くの人数が入るわけだからスペースは窮屈だし、もとの組の生徒からすればいい迷惑。4組のメンバーは肩身の狭い数ヶ月であった。先生が復職されてクラスに戻った時は本当に嬉しかった。先生の復帰はもちろん、4組のクラスメイトが同じ部屋にいることが、である。結果的にあの分割がクラスメイトの気持ちをより強く一つにすることに働いた気がする。
小学5年から家庭科の授業が始まる。立ち方、座り方といったマナーや運針などの裁縫、元々男どもには興味がないところへ、教科担当は比較的高齢のK先生。この人は声がかん高く細かいことを歯に衣着せずに指摘するものだから、この先生のことを特に男子は一気に嫌いになった。6年生になってこのK先生が病気で数ヶ月に渡って休まれることになった。病気だろうが何だろうがK先生の顔を見なくて良いのだから、多くの男子生徒は内心でヤッターと思っていたはずだ。子どもは残酷なものだ。
ある日の帰りのホームルーム時間のことだ、当時のクラス担任から「K先生が復帰されるまで家庭科は小山不二子先生になります」との知らせ。このときはクラス中が「わーっ」と狂喜乱舞した。結局6年生の家庭科はその年度中ずっと小山先生だった。K先生には申し訳ないがすごくトクした気分だった。
6年生の家庭科では調理実習があった。数人ずつの班に分かれて調理するのだが、よく覚えているのは長ネギと油揚げの入った味噌汁だ。ネギを2~3センチに切り、油揚げを入れずに作ったら、班のメンバーから「ネギが大きすぎる」「何故油揚げを入れないのか」とクレーム。当時、私の家庭では長ネギは2~3センチの長さに切っていた。味噌汁の具はネギならネギだけであり、複数の具材を入れるのは豚汁のようなスペシャルなもので味噌汁のイメージがなかった。小山不二子先生に助けを求めたら、具は何種類でもいい、ネギは1センチほどに切れという指示。何となく腑に落ちなかった。
今になって友人に聞いたら、このときは他にもほうれん草のお浸し、粉吹き芋、ご飯も炊いたようだ。そういえばデザートにリンゴとヨーグルトを和えたものがあった気がするが、私は他に何を作ったのかあまり覚えがない。味噌汁のことが余程悔しかったのだろう。
何故今さら小学生の頃の先生の思い出かという気持ちもある。それを懐かしんでいても発展的なことにもならないとも思うが、御師との一つひとつの思い出が今の自分の人格形成につながっていると思えば、それはそれで貴重なことかもしれないし、大切にしなければならないと思う。
小山不二子先生は、今では高齢者特有の体の不自由さはあるというが、今もお元気で外出もされているという。私たちクラスメイトは新型コロナウィルスの影響がなくなったら、是非ご一緒にお食事をしようと皆で話している。私たちにとって56年前の思い出が確かに今につながっている。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )