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ブログ

2022 年 3 月 19 日

御礼の意味 ― 先達から学んだこと

 ある方と会食をした。私のほうが遙かに年齢が上なので全額を負担したかったが、半額より多少多いと思われる金額を負担した。後日、その方からそのことについての御礼の贈り物をしたいとメールが来た。私としては決して過分な負担をしたわけではないので、丁重にお断りしたのだが、何となく後味が悪い出来事だった。いや、その方に責任があるのではない。人の厚意を断ることへの自責の念である。
 そこで御礼の意味について考えてみた。

 私の父は、小さな商社の管理職、役員をしていた。プラントのバルブやエレベータのワイヤーロープなど、いろいろな事業を展開していた企業だったが、工業用繊維を扱っていたので、1970年代後半の2度のオイルショック時には相当に苦労をしたようだった。
 そんな父の仕事柄、我が家には季節になると取引先からお中元やお歳暮が届いた。子ども心にわくわくしながら包装を解いた思い出がある。
 反面、父はいわゆる虚礼廃止主義だった。お中元などが届く度に「余計なことをして……」とか「仕事でやっているのだから、個人に御礼をする必要はない」などと怒っていた。かといって送り返すことはしなかったのは、母と私たち子どもが喜んだからか、どれほどの信念があったのかは分からない。
 考えてみたら、世の中の贈り物は、現実はある立場や使役についての御礼である。そんな父の影響もあってか、私は社会に出てからも仕事での成果を個人レベルの御礼にするのはいかがなものか、そんな思いを持ち続けていた。今もそうだ。

 そうは言っても、私も人から贈り物をいただくことがある。多くはこんな気持ちで贈ってくれたのだろうと概ね想像がつく。それはそれでありがたくいただくことにしている。送り返したい気持ちもあるが、それをして人間関係に傷が付くのが恐いし、その趣旨を説明しても分かってくれないだろうと思うと面倒だからである。そこは父と一緒か。まったく趣旨の分からない贈り物もたまにはあるが「贈るならきちんと趣旨を説明しろよ」などと、ブツブツ言いながらももらっておく。

 私自身はお中元やお歳暮は贈らない。また、何かの贈り物に対するお返しの贈り物も基本的にはしない。ある意味で父譲りの、虚礼廃止、御礼廃止主義である。何故か。何かの恩に対して御礼の金品を贈り返すことで、受けた恩への気持ちが軽くなると思うからである。
 他人から恩を受ける。恩を受ければ恩返しをしたくなる。当然の感情だろう。あえてそれをしないとどうなるか。例えば、ある人からいただき物をした、こちらも何かを贈らなければ気持ちが済まない、何とかしなければというストレスが溜まるわけだ。そのストレスこそが元の恩を忘れないことにつながる。いつまでも思いが続くことになるのではないか。
 別の言い方をするなら、恩返しをするということでストレスは軽減される。御礼の意味で贈り物をすることで義務を果たし対等な関係になったと安心し、結果として受けた恩への気持ちも軽くなってしまうのではないかと思うのである。

 以前、このブログにも書いた私の御師であり、人格者といえる町田宏先生、私は何度も食事をご一緒させていただいた。毎回、先生が会計をされるので、あまりに申し訳ないというわけで「今回は私に払わせてください」などと言ったが、先生は「それをしたらもう君とは付き合わないよ」と突き放される、こんなことが続いた。私の気持ちには、私も社会人なのだから対等にとか、せめて2回に1回くらいは、などとの計算があることは否めない。結局は恩を返すという心根の問題を理屈に当てはめようとしているわけだ。感謝の気持ちそのものをいかに表すかは、素直に受けることにあることでしかないのか。
 この果たせなかった思いが、先生のご恩として今も私の心にある。悔しい気持ちもあるがどうしようもない。せめてご命日近くに先生の好物だった博多の明太をご家族にお送りし、お供えしていただくことしかできない。それも5年目にご遺族から辞退のお手紙をいただいた。今後は時々にする。
 この上は、このご恩への御礼を具現化するには私より若い世代の人たちに情(なさけ)をかけるという行為によるしかない。だから私も若い人と会食する時はできれば全額を、相手方にストレスをかけない程度にご負担いただくにしても幾ばくかは多くを支払うことにしている。
 「かけた情は忘れよ。受けた恩は決して忘れぬように」亡き父、亡き師はそれで良いと思ってくれているだろうか。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )