2022 年 8 月 31 日
講師の仕事 - 考え続ける意味
私の生き方の基本のひとつに、小学校時代に習ったことがある。
記憶が正確ではないかもしれないが、宮沢賢治が農学校教師の時のエピソードである。「人は何故、生まれてきたのですか」との学生の問いに対して、「人は何故、生まれてきたのか、それを考えるために生まれてきたのだ」と答えたという件である。
この問いと答え、子どもの頃は、はぐらかされたような答えだと思ったものだが、私はこの答えが今も頭から離れない。結局は、明確に割り切れる答えのない話だから、無理に答えを設定しようとすると理解や思考が浅くなる。答えがない以上、そのことを考え続けることこそが価値のあることなのだということ、これが真理だ。
私は人前で話す仕事をして36年になる。講師として人の前で自分の知見を述べるわけだから、実におこがましい仕事をしていると思う。始めたばかりの頃は、そういった場を欲して、是非講師として使ってほしいと自分で自分を売り込んだ。そういうことをしなくてもクライアントさんのほうから依頼が来るようになりたい、そんな立場を夢に見た。そして、断るほど仕事の依頼が来たこともある。そのような立場にもなることができた。
年齢的なこともあり、徐々に仕事を減らそうとしている昨今、では自分は何故、講師をしているのか、講師とはいったい何の仕事だろうかと考える。これまで自分がやってきたことが、果たしてこれで良かったのだろうか、話を聞いてくれる人々に本当に役に立つ話ができていただろうか、である。役に立ってやろうと、変に力が入ると押しつけがましい話になる、それこそ唯我独尊。かといって手を抜くのは失礼だ。話を聞いていただくことは、相手の時間をいただくことだ。時間をいただくことは、その人の生の一部をいただくことになるからである。
自分はできた人間だ、有益であり組織に必要な人間だ、と思う人が時としているが、そういう人は間違いなくその組織には迷惑な存在である。少なくとも人格的には問題ありとなって、周囲の人は距離を置いて付き合うようになるだろう。結果的に友達が少なくなる。有益な存在かどうかは他人が決めることだからだ。
講師とは何か、よりよい講師としてあるために何をすべきか、私にも説明はできるが、正直のところ深く考えると分からない。この問いに答えはないのだ。そう考えながら生きていくしかないのだろう。
でもそれで良い。それが小学生の時の教えだから。
67歳の青の春である。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )