2022 年 9 月 18 日
人の死をどうこう言うわけではありませんが ― 国葬について思うこと
安倍晋三氏が不遇の死を遂げた。
事件直後に一部の評論家やマスコミは「民主主義への挑戦」などという言葉をつかって報道したが、犯人に政治的背景があったのかを確かめもしないで、そのような言葉をつかうのは各自の恥をさらしたようなものでしかないわけで、実に不快だった。犯人の自供によれば、政治的な主義主張に基づいた犯行ではなく、また安倍晋三氏と統一教会の関係を精査したうえでの犯行でもなかったというから、不遇な者の短絡的な犯行ということだろう。氏はそれで命を奪われたわけだから、言葉を失うほどの悲しい出来事だった。そのことは心からそう思う。
そのことで政府は国葬を行うという。マスコミはこぞって世論調査を行い、野党の論調を取り上げているが、根本的な問題は人の死をどう思うかだから、私は賛成でも反対でもない。人の死を弔う行事だから是も非もなかろう。そういう思いの人が集まってやるなら、やれば良いことだと思う。
ただし、国葬とは国を挙げて行う行事だ。やる以上は、国民皆で弔意を表しましょうよ、という方向性は必要だと思う。かつての国葬は、例えば山本五十六氏のように政治的なイデオロギーを完成させるべき手段として使われた歴史もあるし、今もそういう国もあるかもしれない。しかし、今の日本では人の気持ちが強制できるものではないし、弔意を勧められたところで人々の気持ちが統一されることなどあり得ないだろう。政府は、国民に理解を得るべく丁寧に説明を続けると言っているが、この問題で多くの国民が統一された理解や結論に至ることはないだろう。安倍晋三氏という一政治家への評価を統一することなど簡単にはできないからだ。
だからこそ、それでもやると言うのなら論理的結論を希求するのではなく、主催者はそのポリシーや信念を熱く語るべきだろう。「現政権はこういう考えに基づいてこのように判断した。よって多くの方に気持ちを寄せていただきたい」と。今の政府の説明にはそれが感じられない。「国民に弔意を求めることはしない」との談話を出しているが、それなら国葬の意味がない。国民に弔意を求めない国葬など、論理的に矛盾している。
閣議決定だけで決めた今回の国葬は手続き上問題がある、したがって参列しないという論調もあるが、それも釈然としない。最も大切なことは人の死を弔うことだ。
そうなると、国葬にするかしないかの基準を明確にすべしという短絡的な意見も出るだろうが、そもそも人が人の存在に評価を下すことなど、歴史を紐解くほどの時間をかけなければならない。この問題で国民の統一的理解など無理なのだ。多様性が重んじられるこれからの社会では、いっそのこと国葬などやめてもいいのではないかと思う。それに変わるコンセプトを議論すべきではないか。
最後に、国葬に反対している人の一部に「警備にお金を使うなら福祉に回せ」という論調があるようだが、これこそ質の悪いポピュリズムだ。歴代最長の総理大臣経験者の葬儀を行えば、それがたとえ国葬でなくても外国の要人は来るだろう。その警備費は相当にかかるはずだ。これは日本が開かれた民主国家であることの、自由な行動を保証するための誇りある負担というべきである。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )