2024 年 4 月 16 日
空白の1週間でした ― 透明な記憶
この一週間、一体何があったのだろうか。気づいたら過ぎていた。夢から覚めたようにその間の記憶が透明だ。
4月6日(土)母が逝った。施設に入ってから8年、最近の衰弱の傾向は顕著で快方に向うことはなかった。特に今年に入ってからは口からの食事ができなくなり点滴で水分を補給するのみ。まさに死が目前の人間とはこういう状態なのかと思い家族の誰もがその日を覚悟した。
その日も午前10時前に私が見舞った時には反応があったので、その日は数週間後だろうと漠然と思っていた。私が見舞った数十分後に担当看護師が巡回した際には言葉かけに反応していたという。さらにその数十分後の11時半頃に施設の看護師が巡回した時に呼吸が止まっていたという。
ある程度覚悟はできていたとはいえ、施設では死後の処置はどこまでやってもらえるのか、遺体をいつ、どういう方法で、何処に運び安置するか、施設の部屋にある備品、所持品はどうするか、さらに通夜、葬儀の日程、場所、斎場の予約を葬儀社と相談、僧侶とのスケジュール調整、葬儀には誰を呼ぶか、誰を呼ばないか、予算の処置などなど、その日から2~3日は慌ただしくこなしていった。
その日が来ることが想像できたので、葬儀社から事前にすべきこと決断すべきことを聞いていたし、葬儀は家族葬で執り行うこととしていたので、印刷物や会葬お礼品、多くの人への連絡対応はナシ。よって一般の葬儀よりも決断も作業もはるかに少ないはずであったが、悲しみの気持ちのなかで様々な手配、決断、計画を推し進めることには明るい希望もない心地の悪い疲労感を覚える日々であった。
家族葬も自宅で行うこととしたので遺体は7日(日)に自宅に運び、6日間にわたって安置することになった。線香を絶やさないよう入れ替わり立ち替わりの番。通夜が11日(木)、告別式が12日(金)、遺骨になって戻ってまさに7日目に初七日法要。さしあたっての行事が終わって13日から通常の日々に戻った。
ちょうど一週間が過ぎた13日、まさにあの日、6日(土)が昨日のようにも思えるし、すでに1年も前のようにも思える。いろいろとあったのだが、何をしたという感覚もないし達成感もない。その日がやがて来ることへの覚悟もしていたので、悲しいとか残念だとかいう感覚も薄い。
この1週間の記憶はまさに透明だ。
代表
関根健夫( 昭和30年生 )