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ブログ

2024 年 12 月 27 日

私は父に少しでも近づけただろうか ― 60歳代最後に思うこと

 私の父はすでに40年ほど前に亡くなった。56歳だった。
 ある意味で、多くの男性は親と同化したい、親を越えたいと思っているのではないかと思う。だから世間では家業を継ぐということが多いのだろう。もちろんその他の事情もあるだろうが。私の父は高校卒のサラリーマンだった。若いときは複数の会社を渡り歩き、経理の仕事もしたようだが、最後は30年以上務めた会社で営業担当常務取締役という肩書きだった。
 私はサラリーマン家庭に育ち、家業ではないから仕事そのものを継ぐことはないわけだが、私が物心ついた時には何となく営業の仕事に就くのだろうと思っていた。中学生ぐらいだったか、父は私に『これからはセールスエンジニアの時代だ』と言った。単に営業ができるのではなく、技術者としてお客さまに信頼される営業、これが強いと。だから、漠然と大学は技術系の学部に憧れていたし、実際に不動産会社でマンションの企画、計画、設計、販売まで、それほど抵抗なく交渉事にも打ち込めたのだと思う。
 私は俗にいうパパっ子だった。父が尊敬する人、父が好きなこと、父の仕事には興味を持った。父が土光敏夫氏の話をしてくれればその人に興味を持った。土光敏夫氏のことはこのブログにも書いたのでここでは割愛する。

 父が最後に勤務していた会社は一時、社員が数百人の規模で好調だったようだ。が、工業繊維を扱っていたので昭和40年から50年代にかけてのオイルショックで環境が変わってしまった。繊維業界は不況に陥り会社は財務的にも相当に苦労をしたようだ。その会社の役員だったから人員削減、自らの役員報酬も返上、給与も遅配、欠配を経験したようだ。私の家庭のやりくりも一時は大変で、銀行からの借金や母の実家からの借金でしのいだと後に聞かされた。

 私は今、69歳。年齢的にはすでに父を越えた。自ら会社を作った。事業規模の拡大はある思うようにならなかったが、2021年コロナウィルス騒動で会社を止めるまで、社員とは良い思い出を作ったと自負する。結婚してからは薄給の時期もあったが、後にそれなりの報酬に恵まれ、妻と双子の娘二人、贅沢をしたつもりもないが、幸せな家庭が築けたと思う。毎年何度も旅行に行き楽しい思い出を積み上げた。私は常に思うこと、父に少しでも近づけただろうか、父を越えることができただろうか。
 私は100歳まで生きるつもりだから、人生はまだまだ続く。この先も父に近づきたい、越えたいと思いながら。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )