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2024 年 12 月 31 日

母の記 ― 年の終わりに思うこと

 今年4月に母が逝った。93歳だった。
 私は子どもの頃、母が怖かった。ある意味で厳しく育てられた。幼稚園の頃、食事で好き嫌いを言うと「なら、食べなくていい!」と、すべてを片付けられ、押し入れに閉じ込められた。4~5歳のことだからやがてひもじくなって泣き出し、仕方なく食べるということが何度かあった。中学2年の時に好き嫌いを言ったら、では何が好きなのかということになり、私がとんかつだと言ったら、毎日私だけがとんかつの夕食になった。1ヶ月くらい続けたら顔にニキビが増え体調に変化が現れた。さすがに母は止めた。私もそれから好き嫌いを言わなくなった。結果として今、食べ物に好き嫌いがなくなり、何を食べても美味しく感じられるのは母のおかげだと思う。

 小学生の頃、友達の家で数人で遊んでいたら夕方になり、友人のお母さんが「夕食を食べていきなさい」となった。私以外の友達は食事をご馳走になったが、私は母に叱られるので一人先に帰った。楽しく遊んでいるのに自分だけが帰る。こんなことが何度かあった。相手先にご迷惑だからというのが母の理屈だが、楽しい局面で私だけが帰る、この理不尽さは今も悔しい思いとして残っている。

 私がもの心ついてから、母は他人のことを褒めたことが少なくとも私の記憶にはない。「あの人は……」という話は大抵が相手方のマイナスの指摘だった。父がお酒を好きだったことも「お酒を飲んで……」「私は酔っ払いが一番嫌いなの」などと言った。それほど大きな意味を持たせているのではないだろうが「お父さんが働いてくれるから今がある、感謝しましょう」などという言葉は聞いたことがない。母が父をなじるのは男の子として抵抗があった。また、言い返すことをしない父にも、出勤時に母から小遣い銭をもらって行くことも、子ども心に忸怩たる思いだった。

 母は他人の恩を極端に嫌った。人からいただき物をすると、すぐにデパートからお返しをした。贈り物にはそれなりの思いがあるのだろうが、そういうことは問題にせず、とにかくお返しを送る。有名なものでなくてはならないというイメージだ。海苔なら山本海苔店だし、煎餅だったら銀座あけぼのというわけだ。晩年は美味しいものは美味しいとブランドにはそれほどこだわらなくなったのは良いことだが。

 母はお祝い事があれば、列席者に電話をしてお祝いはいくらにするかを聞く。自分だけが目立ちたくないという感覚。法事があれば本家より多くのお布施を包むわけにはいかない、かといって少ないのはまずい、どうしようと面子を気にして気をもんだ。
 贈り物にしても、お祝いやお布施にしても、こちらの気持ちを表すものだから、自分で決めれば良いはずだ。自分がそのことにどのように価値を感じているか、自分がどうしたいのかが本質的な問題だろう、このようなことでは私が大学生になったあたりから常に言い合いになった。この頃から、私は母とは性格が合わないと思った。私はこんな女性とは結婚したくないと思うようになった。このことが今もトラウマになっているのは正直なところだ。

 人の生死はすべてが自然の中にある。自分の意志で生まれた人はいないし、自分の意志で老いを迎える人もいない。今年、母を送った。送るということは葬儀をするとか法事をするとかのことではない。人を送るということは、この先も思いを続けることだ。それは今の私が幸せだからできることなのだろうと思う。合掌。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )