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2025 年 10 月 21 日

関西万博には行きませんでした ― 大阪万博へのリスペクト

 関西万博が閉幕した。私は行かなかった。妻と娘は1回行って楽しかったようで、追加で2回目の万博旅行をした。万博といえば、その時代の先端技術が披露されたり、各国のパビリオンがその国を紹介したりする、まさに博覧会。それらを見て体験して回ることは楽しいに違いない。開催前は批判的な論調もあったが、入場者の評判は概ね良く、協会の収支も黒字だったようで、それはそれで結構なことだ。
 しかし、私は関西万博には行かなかった。それは55年前の大阪万博へのリスペクトの念が強いからで、その直前にあえて万博記念公園の太陽の塔と大阪万博記念館へ行った。

 大阪万博は私が中学1年の時に決まり、中学3年の時に開催された。当時の私はこれに大いに憧れた。小遣いでガイドブックを買い、行けるかどうか分からずとも、此処と此処を回ろうなどと見学コースをいくつも作って想像を膨らませた。幸なことに中学3年の修学旅行は例年の京都、奈良の予定を組み替え、万博で1日の自由行動があった。夏の家族旅行でも2泊3日の中日に万博に行き、両親と妹は最終日に大阪城見学に行ったが私だけは一人で万博に行った。つまり会期中に3日間。

 55年前の大阪万博はとにかくすごかった。日本の総人口が9500万人の時代に入場者は6500万人(関西万博は1億2500万人に対して2600万人)、シンボルとなるモニュメントは、人類の進歩と調和を表す岡本太郎作の太陽の塔(関西万博は大屋根リング、なんだそれ!私にはこの建築の価値が分からない)。大阪万博では他にも世界初の携帯電話やテレビ電話、世界初のハイビジョン映像、世界初のエアドーム構造のアメリカ館、東芝IHI館は鋼鉄製のテトラを2000個以上組み合わせてドーム式の円形劇場を吊り下げ、500人乗りの客席を下から油圧で押し上げるというダイナミックな建築、などなど世界初の技術が散りばめられていた。

 当時はほとんどの日本人が外国人とは会話したことがない時代。フランスパンやピザなど口にしたこともない。それらは大阪万博で多くの日本人が初めて体験したことだろう。私の妹は当時小学6年生、外国パビリオンのコンパニオンさんと話をして実に嬉しそうだった。
 当時の日本のヨーグルトは甘い子ども向けで、ゼラチンで固めたようなものだった。初めて本格的なヨーグルトがブルガリア館で供され、その本格的なヨーグルトを日本で製造するために、当時の明治乳業の一社員がブルガリア政府に掛け合って「ブルガリアヨーグルト」を売り出したのは有名な話である。今も明治ブルガリアヨーグルトの商品のロゴ文字は大阪万博のブルガリア館の表札と同じものだ。

 まだまだ、大阪万博が今の日本を変えた例はいとまがない。だから、私は今回の関西万博を否定はしないが、行ってもかつての大阪万博の感動は得られないだろうから行く気がしなかったのだ。歳のせいかもしれないが。

代表

関根健夫( 昭和30年生 )